2009/08/28

一幕見席、存続か?!

歌舞伎座建替え計画について、記者発表が行われたのが、8月26日。
その際の報道では、一幕見席については、触れられていなかったため、悲観的に考えていた。

しかし、今朝、Twitterで「存続するようです」という記述を目にしたので、さっそく、そのネタもとのBlog「江戸と韓国と演劇と映画と」の「一幕見は存続するようです」というエントリーを拝見。
リンクが貼られていた
歌舞伎座サイトにUPされた計画書(PDFファイル)
を見てみた。

4. うち劇場部分の概要
客席数 現存(第四期)と同程度を想定 【参考:現存は1,859 席 一幕見席除く】
桟敷席、1 階席、2 階席、3 階席、一幕見席
舞台寸法 現存(第四期)と同程度を想定 
【参考:現存は間口27.5×奥行20.6×高さ6.3m】
まだ、「想定」という段階なので、これで、存続決定!と喜ぶのは早いのだけれど、現段階での計画に入っているということだけは確認できて、松竹さん、歌舞伎座さんが、ファンの声を聞いているようで、ちょっとだけ安心した。

なお、現在の歌舞伎座については、つい先日、こんな本が出た。


篠山紀信・坂東玉三郎『完全保存版 ザ歌舞伎座』(講談社)

 

 

 

また、歌舞伎座の写真集としては、歌舞伎写真の第一人者・吉田千秋さんの本も。

 

 

吉田千秋写真集 歌舞伎座―歌舞伎四百年記念』(朝日新聞社)



劇場というのは、建てただけでは実は単なる箱でしかない、というのは近年できた某劇場に初めて行ってみた時に、痛感した。また、かつては魅力に溢れ、輝いていた劇場も、何かのきっかけですっかりそのアウラを失ってしまうこともある、ということもある。

劇場というのは、そこを愛するスタッフ、役者、観客が集まって初めて、呼吸を始める。多くの人の心が、劇場をワクワクする玉手箱に育てていくものなのだ。今の歌舞伎座には、そうしたたくさんの人の愛がつまっている。だから、たとえ急な階段を上がろうとも、座席が窮屈であろうとも、歌舞伎座で見る歌舞伎が一番好きだ。

新しい歌舞伎座も、そういう劇場=小屋になっていって欲しいと願っている。

  

2009/08/27

晶文社が・・・

またもや、哀しい情報が・・・。

犀のマークで、シブい本を出し続けてきた晶文社さんが、どうやら、規模縮小になってしまうらしい。
で、今まで書籍編集に携わってこられた、編集者の皆さんも散り散りになりつつあるとか・・・。

岡崎武志さんの「okatakeの日記」2009年8月26日付のエントリーで知った。

岡崎さんも日記で触れていらっしゃるが、一昨年の春から夏にかけて、晶文社さんが事業を縮小するらしい、という話題で、シブい本好きの人たちが騒然としたことがあった。
あの時は、そういう事態に至ることなく、昨年には、岡崎さんの本も、無事、晶文社さんから出た。




岡崎武志『雑談王』(晶文社)

晶文社さんお得意のバラエティブック。







坪ちゃんの『雑読系』なんかは、ご本人が「バラエティ・ブック」を作りたかったっていってたしなぁ。
そして、晶文社といえば、この人!な、植草甚一さん。



元祖・バラエティーブックの
『ワンダー植草甚一ランド』


そして、植草甚一スクラップブックのシリーズ。




また、忘れられないのが、月の輪書林の高橋とおるさんの著書を世に送り出したこと。



 『古本屋 月の輪書林』


月の輪書林 それから









ほかにも、リチャード・ブローディガン『アメリカの鱒釣り』 の元版とか、濱田研吾さんの『徳川夢声と会った』などなど、晶文社ならではのラインナップがたくさんあって、シブい本好きにファンの多い出版社だけに、今回の話は、とても淋しいし、残念だ。


  

2009/08/26

歌舞伎座建替え計画と六代勘九郎誕生

よる7時のNHKニュースで、いよいよ正式な建替え計画が発表された、東京・東銀座の歌舞伎座。
「歌舞伎美人」サイトにも、さっそく、計画についてのお知らせがUPされていた。

「歌舞伎座建替え計画に関するお知らせ」

そのお知らせによれば、
発表された内容では、歌舞伎の殿堂「歌舞伎座」の継承を主眼に、劇場部分は従来通りに低層で構え、その独立性を重視した日本様式の外観デザインとなる予定 です。特に、劇場内は桟敷席や一幕見席などの歌舞伎座らしい設備はそのままに、エレベーターやエスカレーターの設置、トイレの増設、客席設計の改善などを 盛り込み、お客様にやさしい空間づくりを目指す方針となっています。
 とのこと。このページには、完成予想図はUPされていなかったので、検索をかけてみると、
MNS産経ニュースに、完成予想図の写真があった。


昨年末に発表されたデザイン案は、外観が大幅に変更され、ビルの中に劇場が呑み込まれてしまうような形だった。
また、建築許可を出す東京都の石原慎太郎知事が、現在の歌舞伎座の桃山風の建築様式を
「銭湯のような外観は嫌いだ、オペラハウスのようなデザインがいい」
という意味の発言をしたことが伝えられ、歌舞伎ファンをはじめ、多くの人の反発を招いた。

その時に発表されたデザインよりは、だいぶ、現在の歌舞伎座の外観が生かされているなという印象があり、一安心といったところ。
しかし、多くの歌舞伎ファンが熱望している「一幕見席」は廃止される方向のようで、その点は、非常に残念だ。

歌舞伎の興行は、だいたいの場合、昼の部が11時、夜の部が16時30分開演で、休憩をはさんで5時間程度の長い上演時間が特徴。
チケット代も、1万数千円から安い席でも2千500円ぐらい。初めてでは「つまらなかったらどうしよう? もったいないな」といった気後れを感じるという話をよく耳にする。こうした人たちに、千円前後で気軽に、生の歌舞伎に触れてもらうことができる、貴重な場が幕見席だ。

また、コアなファンの中には、贔屓の役者目当て、あるいは気に入った演目を何度も見に通うことができると、繰り返し利用している人も少なくない。

こうした、歌舞伎全体のファン層を広げるという意味では、非常に大事な役割を担ってきた幕見席を廃止することは、今後の歌舞伎の存亡にもかかわるぐらいの暴挙ではないだろうか。
新装開場から2年ぐらいは、新しいもの見たさのお客が、団体も含め大挙して歌舞伎座に足を運ぶかもしれない。しかし、そうした"新しもの好き"の客は、常に次のターゲットを求めて、動いている人たちだ。その中の何割が、歌舞伎ファンとして定着し、リピーターとなってくれるか、といえば、非常に心もとない気がする。

一方、こうした団体客に押し出された歌舞伎ファンからは、舞台を生で見る機会が減り、「こんなにチケットとりがたいへんなんだったら、もういい」と背を向けられてしまう可能性だって、大いにある。
しかし、幕見席があれば、こうした前売りでチケットを購入できなかった人たちをある程度、吸収することができる。
また、学生や若い人で「お金はそんなに持っていないが歌舞伎は好き」という人たちが、生の歌舞伎を手軽に楽しめる機会を提供することもできる。

今年の春に発表された計画では、幕見席のかわりに「ガラスで仕切った上階の別室から、舞台と客席をけんがくすることができる」施設を作る、という項目があったが、せっかく歌舞伎座まで足を運んだ人たちを、なぜ、ガラスの向こうからしか見られない場所に押し込めなくてはならないのだろうか?
たとえ、舞台からは離れた席でも、生の舞台に触れてもらって、歌舞伎の楽しさ、美しさ、醍醐味を知ってもらってこそ、ファンが生まれるというものではないか?

そういう意義のある場所としての「一幕見席」廃止を、ぜひ見直していただきたい。

なお、新生・歌舞伎座の完成は2013年春の予定 とのこと。
それまで、歌舞伎の公演数事態は維持するという発表が同時になされ、新橋演舞場ほかの劇場で歌舞伎を上演するものと思われる。


また、このニュースの中で、十八代中村勘三郎の長男・勘太郎が、六代勘九郎を襲名することも発表されたとのこと。
2012年に披露興行を行うとのことなので、新生歌舞伎座の杮落としより早い時期になるが、重ね重ねおめでたい。

勘太郎くんといえば、小さな時から舞台で活躍しており、近年はその進境著しさに目を見張らせるものがある。

父・勘三郎さんは「息子だからといって、名前を継がせるとは限らない」と自身の襲名の折に語っていたが、早くも息子の成長を認めたということだろう。
今秋には、タレントの前田愛との結婚が決まっている勘太郎くん、ますます芸に精進してくれるだろう。

  

2009/08/25

iPhoneアプリ「TSUZUMIN」は、なかなかの傑作!

昨日、twitterのTLで教えてもらった「TSUZUMIN」というiPhoneアプリを、さっそくDLして触ってみた。

さすが、音楽系に強いiPhoneアプリ!かなりいい線行ってます。



こんな画面が出てくるので、適当に
タップしてください。
すると、画面が変わります。















これが、Play画面。



とりあえず、掛け声のボタンをタップしてみると、人間国宝の声じゃない、コレ!?

「ホヲ」って、「ヲ」の使い方がかなりマニアックだぞw
でも、惜しいかな、うちのお流儀で附(つけ=楽譜の代わりの覚書)を書く場合、「ハヲ」「ヤヲ」なんだけどね…。

人間国宝のお流儀はどうだっけな???








そして、鼓の皮の部分をタップすると、「おお!ポだ!」
しかも、相当いい音だこれ。
少なくとも、わたしが打つよりはずっといい音(汗)
でも、「ポ」しか出ないのは、残念!と思ったら…。

昨日は、ちょうどお囃子のお稽古日だったので、お稽古場で師匠に「こんなもの、見つけました」と
見せると…。

なーんと、「タ」の音も出るじゃない!
さすが、師匠、直感的に、タップする場所を変えた!!



えーと。この鼓の部分に、黒い線が2本ある。
内側の、皮の色が濃い部分をタップすると「ポ」という音が出る
(これを乙=低い音という)。

で、外側のお花みたいな模様がついている、
皮の色が薄い部分をタップすると、「タ」という音が出る
(これを甲=高い音という)。









これ、本物の鼓でも、同じ。
鼓を打つ場合は、説明のページにも書いてある通り、「調緒(しらべお)」という麻の紐を左手で締めたり緩めたりする操作が加わる。

そして、音色には他に、弱く皮を打つ「プ」(乙の音)と「チ」(甲の音)がある。(「ペ」もあるとのことだけれど、うちの流儀の場合は、特別な曲でしか使わないので、普段はまったくご縁がない)


掛け声も、演奏する場合には、まだまだ他にもあるけれど、だいたいこの5種類の変形かな?
あと、曲調によって、語尾の上げ下げ、長く引っ張るか、短く切るか、という違いなど、いろいろあることはある。

「これ、人間国宝の掛け声だよ。たぶん、ポとタの音もそうだと思うな。サンプリングされてるからね、あの先生の音は」
と、師匠がおっしゃってた。
「あと、すごく、レスポンスがいいね、この画面を叩いたときの」
と驚いていらした。

「明後日、人間国宝にお目にかかるから、言っとこう!」
と、おっしゃる師匠の目に「キラーン!」という光が w

ちなみに、TVCMなんかでよく鼓の音が使われているが、かなりの確率で、人間国宝の先生のサンプリング音源らしい。

ということで、本格的なサンプリング音源を、iPhoneがかなりいい音質で再現しているアプリだということが、わかった。
願わくは、「チ」と「プ」の音も出せるようになると、とてもうれしい。
あと、録音できたりすると、なおうれしい。

締太鼓と大鼓、能管も出ないかなぁ~? そしたら、四拍子揃うから、面白いのにな
っていうのは、あまりにマニアックすぎるか…w


それにしても、こんなちゃんとした音でアプリを作ってくれた製作者さん、ありがとう!

iTunes StoreでTSUZUMINを見る
  

2009/08/20

「船弁慶」を聴きに歌舞伎座へ

日曜日に見て、また見ちゃった納涼歌舞伎第二部。
なんといっても「船弁慶」の傳次郎さんの太鼓が聴きたくて、一度聴いてしまったら、また聴きたくなる、という連鎖が…。
日曜日は、偶然、当日券で非常によいお席が出ていたので、予定外に観劇した。
で、今日は、お友達と「行くなら、その日しかない」と予定を合わせていた分。

で。「船弁慶」。
この曲は、2年ぐらい前の、歌舞伎座で染五郎さんのシテの時に、通ったなぁ。
実は、この時は、踊りを見に通ったのではなく(笑)、お囃子を聴くために、幕見に通ったのであった。
その時も、タテ鼓が家元(=田中傳左衛門氏)、太鼓が傳次郎さんで、大いに感動。
最後、知盛の幕外の引っ込みの時に、太鼓と笛の出打があるのだが、これがまた、非常にカッコイイのだ。
傳次郎さんが太鼓を出囃子で打つ機会は、最近、かなり減っている。本興行では、ご兄弟が揃わないことが多いためだ。
鼓に関しては、やはり、家元がスゴイなあと思うのだけれど、太鼓は、やはり傳次郎さんがいい。望月長左久さんもいいけど。

傳次郎さんの太鼓の好きなところは、同じお道具なのに「こんなにいろんな音色が出せるのか!」というところ。曲想によって、やわらかい音、明るい音から硬い音、鋭い音、重い音、までさまざまな情景を見せてくれるところ。
「船弁慶」でも、舟長が出てきて、ご祝儀の唄を歌うあたりは、のどかで明るい感じだし、知盛が出てくるところでは、不気味で不吉で暗くて、そんな感じが漂う。
知盛が義経に襲いかかるところからは、長唄も囃子もどんどん盛り上がっていく。その時のノリを作ってリードしていくのが、太鼓の役目。
前に、家元が「弟の太鼓は、リードする太鼓だ」とおっしゃってるのを読んだ事があるけれど、まさにそんな感じ。
その場の雰囲気を作り出していくという意味の「リード」が、傳次郎さんの太鼓なのだ。

さて、今月はあと何回、傳次郎さんの太鼓が聴けるかな??? せめて、あと一度は聴きたいものだが。
  

2009/08/19

ひとり五役の「六歌仙」を堪能!

納涼歌舞伎も、ひとまず歌舞伎座での興行はこれが最後。
今年は、野田秀樹や串田和美さんによる新作系はラインナップされず、夏芝居だからということか、二部と三部で怪談モノが。
演目と配役は「歌舞伎美人」サイトを参照。
残念ながら、勘三郎さんと三津五郎さまががっぷり組んで、という演目がなくて、さびしい。

一部は、真山青果「天保遊侠伝」と「六歌仙容彩」という番組。
実は、真山青果は、「御浜御殿」以外は、今まであまり面白いと思った芝居に出会ったことがなくて、今回もそれほど期待していなかった。
ただ、ここ数年、一部の幕開けの芝居で、勘太郎くんがいい芝居を見せてくれているので、そこに期待した、という感じ。お目当ては、当然?三津五郎様が踊る「六歌仙」の方だった。

「天保遊侠伝」。
勝海舟の父・勝小吉を主人公に、幕末の御家人の任官に関する腐敗と、父子の情を描いたっていう感じの内容。
まず、橋之助さん家の宗生くんが、勝麟太郎役でかなりがんばっていたのに、びっくり(笑)。所作にぎこちなさはあるけれど、セリフに関しては、いい感じ。麟太郎のセリフがよかったので、かなり感情移入できた。橋之助さんが逆に、吼えすぎてて、ちょっと引いたけど…。
勘太郎くんの、小吉の甥っていうのが、もう一つ人物像がつかめなかった。雰囲気は出てると思うんだけど。あの家から持ち出した大金はどうなっちゃうんだろう?と芝居が終わってから、ふと、考えてしまった。
この芝居では、なんといっても、萬次郎さんの阿茶の局が光っていた。
勝家の跡取り娘だったが、大奥に出仕することになり、跡継ぎとして、小吉が勝家に養子に入った、といういきさつから、小吉の無頼っぷりに心を痛め、聡明な甥・麟太郎の行く末を案じ、江戸城にお伽の若衆として仕えさせる決意を語る。
説明的にならず、情に流れすぎず、阿茶のセリフを聞いているだけで、ここに至る状況が、くっきりと見えてくる。
そういえば、「御浜御殿」でも、意地悪なお局様を演じて、短い登場時間ながら、存在感があったよなぁ~というのを、思い出した。
宗生くんと萬次郎さんのおかげで、楽しめた「天保遊侠伝」であった。

そして、お待ちかねの「六歌仙」。
この変化舞踊を通して上演するのは、とても珍しいこと。1時間45分ほどかかるこの通し、一人の役者が5つの役を変わり、その変化の妙を見せるのは、たしかに難しい(六歌仙のうち、小野小町だけは他の女形が演じる)。
遍照=僧正という位の高い、年老いたお坊さん
文屋=色好みの町人
業平=ご存知、美男で歌も上手な公家・在原業平
喜撰=姿をやつして祇園に遊びにきた、位の高いお坊さん、喜撰法師
黒主=小町に和歌を盗んだと、いいがかりをつける、天下の転覆を狙う悪人
この5人の男が、絶世の美女=小野小町(喜撰では祇園の茶屋の女将・お梶に置き換えられているが)に恋をしかけるが、全員、ことごとく振られてしまう、というのが全体の筋。
とはいえ、筋は二の次、三の次で、それぞれの男を、一人の役者がどのように踊り分けていくか、が見所となる。

今回、五役を続けて拝見できるという贅沢なひと時を堪能した。遍照は、もうちょっと老成感があった方がいいのかな?とも思うが、文屋・業平・喜撰・黒主の四役は、それぞれの役の違いが踊っていない時でも伝わってきて、さすがだなぁと。
特に喜撰は、この曲単独で踊られたのも拝見しているけれど、今回は、お梶に勘三郎さんが付き合ったというのもあって、見ごたえがあった。勘三郎さんの喜撰も見ているが、芸質からいって、三津五郎さまの方が喜撰には合っていると感じる。勘三郎さんだと、愛嬌がありすぎるんだよなぁ…。
所化で並んだ若手が、みんな三津五郎さまの一人踊りのところになると、ジーっと見てるのがわかって、お行儀が云々という硬い話はヌキにして、間近でこの踊りを見られる機会を、しっかり肥やしにするんだよ~と思った。

地方があれで、もうひとこえ行ってれば、言うことなし!なんだけどなぁ、残念。ちなみに、望月の家元が久々に出囃子に並んでいらして、びっくり。いろいろあるんだろうな…。

うーん、せめてあと1回、見たいなぁ「六歌仙」。


  

2009/08/16

新しい歌舞伎の可能性を感じさせる樹林伸原案「石川五右衛門」 


まだまだ、工夫の余地はあると感じたけど、海老蔵さん、石川五右衛門というチョイスは正解。
今月の演舞場は、樹林伸さん原案の「石川五右衛門」。
樹林伸さんって???と思ったら、「金田一少年の事件簿」や「神の雫」の著者とのこと。
どちらも、読んだ事はないが、タイトルぐらいは知ってるぞ、わたしだって(笑)。
海老蔵さんが、樹林さんにオファーした、ということを筋書で読んだ。

「金田一少年の事件簿黒魔術殺人事件」(少年マガジンコミックス)



  ※樹林さんも出席した製作発表会見の模様は「歌舞伎美人」サイトで読める。
  ちなみに、Amazonに樹林伸さんの近著が掲載されていました。ちょっと楽しみ。
     でっけえ歌舞伎」入門 マンガの目で見た市川海老 蔵」(新書)


石川五右衛門は、五代目と七代目團十郎が演じて好評を博した演目ということで、市川家にはゆかりの深い演目とのこと。
  ※「歌舞伎美人」サイトの「みどころ」参照


五右衛門といえば、「楼門五三桐」の「絶景かな、絶景かな」というセリフでおなじみの芝居が思い浮かぶ。南禅寺の山門の上で、煙管を手に、厚手のビロードの着付けに百日鬘で腰掛けている五右衛門が大セリで道具のセリ上がりとともに現れるところは、絢爛豪華な装置も見物の場面。


今回の新作は、こうした古典の筋を踏襲しつつ、新たな場面も加え、かつ、歌舞伎らしい下座音楽や演出が用いられているという意味で、「新しい古典」になり得る要素は十分に備えている。
ただし、このままでいいかというと、まだまだ、刈り込み・書き足し・工夫は必要だと思うが。

発端。五右衛門の釜茹でのシーンを義太夫にのせた人形振りで演じられる。木村常陸介は、ちょうど「阿古屋の琴責め」で出てくる岩永左衛門を思わせる赤面で、眉毛が人形のように動くところなど、ユーモアがあって、短いながらも客を歌舞伎の世界に引き込むには、よい仕掛けだと思う。

序幕。釜茹での場面から一転、伊賀山中に場所が移る。祠の前に倒れていた五右衛門を見つけた百地三太夫が、一番弟子・霧隠才蔵に命じて、伊賀忍の術を教える。その様子を、立ち回りを交えて見せていく。演出の工夫が、もうちょっと欲しいところ。ただし、ここの場の附けがうるさい! 囃子がまったく聴こえないほど大きな音で打つのは、かえって邪魔になる。ここは附け打ちさんと役者・囃子方で話し合って調整していただきたいところ。

二幕目。場面はまた変わって、聚楽第の奥庭。秀吉の愛妾・茶々と五右衛門の出会いと二人の初恋の模様を、長唄+筝曲の地に乗せた所作事で見せる。茶々は七之助くん。ここの長唄がねぇ…だからなのか、そもそもなのか、ちょっと判断は保留するが、この場は長い気がした。まぁ、演出が藤間宗家だから、所作事が長くなるのも、わからないでもないのだけれど。
もうちょっとコンパクトにまとめると、良いと思う。

三幕目聚楽第お茶々の寝所の場。逢瀬を重ねた五右衛門と茶々だけれど、いつまでも続く訳もなく、五右衛門が茶々に別れを告げる。気分がすぐれないと、自室に引きこもっている茶々を、前田利家が訪ねてくる。この時、利家が全身真っ赤な裃姿なのかが、謎だ…。
茶々の身を案ずる利家に、妊娠したことを打ち明ける茶々。そこへ、團十郎・秀吉がいよいよ登場。茶々の懐妊を知り、喜ぶ秀吉だが…。
この場は、そもそも利家がなぜたずねてきたのかが、イマイチ説明不足だなぁ。五右衛門との密会に気づいてやってきたのか、本当に彼女の身を案じてきたのか、利家が退場してもその辺のあいまいさが、引っかかる。

南禅寺山門内陣の場で、五右衛門に呼び出された秀吉が、秘密を打ち明ける。ここは、照明が暗くて、たいした道具も飾られていないし、、二人だけのやり取りで進行していくしで、もうちょっとテンポをよくしないと、肝心な場面なのに、飽きる…。

そして南禅寺山門の場。ここが、「楼門五三桐」の「山門」にあたる場面かと思ったら、まだクライマックスはこの後にとってあるので、さほど派手さはなし。

大詰。大阪城天守閣大屋根の場。大薩摩でつなぐのは、お約束。こういうところをきっちり作るのは、さすが宗家。だけど、大薩摩がねぇ…。
ここで、五右衛門は、伊賀忍びの術を繰り出して、派手な立ち回りを見せる。分身の術の見せ方なんかは、ある意味原始的なのだけれど「おお、この手があったか!」という演出の工夫があって、楽しい。

三条河原釜煎りの場。大きな釜がしつらえられた舞台面は、発端と同じ。ただし、その釜を取り囲む人数は、増えている。そして、いよいよ五右衛門が釜の中に飛び込むと、中から葛篭が浮かび上がり、舞台の上をふわふわと飛ぶ。そして、その葛篭が消えると、花道スッポンから一回り大きな葛篭が吊り上げられ、葛篭が割れると中から海老蔵・五右衛門の登場。釜の中に葛篭が仕込まれていたのは、あの人の情け、というセリフで「なるほど、五右衛門の葛篭抜けってのは、そういうことだったのか!」と納得。
海老蔵さんが葛篭を背負って、空中六法をすると、柄の大きさと手足の先まで、神経の行き届いた動きで、力強さの中に美しさがあって、まさに「花形役者」だなぁと。この釜煎りの場を見るだけでも、かなり満足感はあった。

個々の場面について、注文はいろいろあるのだけれど、見落としている部分もあるかと思うので、全体を通して感じたことを。
まず、義太夫狂言でありながら、義太夫が面白くない。言葉が伝わってこないのは、問題。再演があるならば、人選含めて、工夫をしていただきたいところ。
人がいない、とはいえ、もうちょっと人間模様を厚めに描いて欲しい。せっかく市蔵さん、猿弥さん、右近さんがいながら、しどころがあれしかないのは、もったいない。これも、再演の折には、もうちょっと工夫をしていただきたい。

とはいえ、新しい原案を歌舞伎古来の手法で、それぞれのいいところを活かしたという意味では、新作歌舞伎の一つの方向を提示した作品だと思う。
これを、1回限りの上演で終わらせるのではなく、さらに手を加えて、「平成の歌舞伎」として、後世に伝わる作品に育てていって欲しいと願う。

  

2009/08/14

白いハンカチにこめられた思い

東京メトロ九段下駅の改札を出たところに、「記された想い 手紙と日記に見る戦中・戦後」のポスターが貼られていて、所要を済ませたあとで、行ってみた。

戦時中、戦地にいる兵士とその家族が近況を伝えあえる唯一の手段は、手紙のやりとりでした。当時は検閲制度があったため、本心を書くことは難しい状況でし たが、手紙を丹念に見ていくと、家族を思う気持ちだけでなく、手紙には書けない当時の情勢なども読み取ることができます。
また、日記には戦争の影響で変化していった日々の生活や、終戦後社会が復興してく様子が、そのときの想いとともに記されています。
昭和館がこれまで収集してきた多くの手紙や日記等の資料とあわせ、写真や当時を思い出して書かれた絵手紙を展示し、戦中・戦後の生活の様子、人々の想いを紹介いたします。

という趣旨の企画展示。
全体は、1.銃後のくらし 2.戦地と銃後をつないだ手紙 3.終戦、戦後 4.戦中・戦後の夏休みの日記 という4つのコーナーに分けて構成されていた。
その日の勤労奉仕の内容を記した日記、配給の食糧を水彩画で描いた日記など、日々のくらしにおわれていたであろう中でも、こうやって丹念に記録を残した人がいたんだなぁ。
また、手紙でも、絵が添えられたものもあった。

中でも印象的だったのは、恋人に宛てて、その無事帰還を待つと書かれた、白いハンカチ。そこには

我君とともに
健壽様
淑江

と書かれていた。
その文字は、彼女の血で書いたもので、すっかり血の赤は褪色して茶色になっている。
婚約した後、健壽さんに召集令状が来て、健壽さんは婚約破棄を申し入れたが、淑江さんは「二年でも三年でも貴方の御凱旋をお待ちしております」と書いた手紙とともに、このハンカチを添えて翻意を促したそうだ。
二人は後に結婚、他界されるまで、誰にも見せることなく大事に保管していたものだという。

この白いハンカチに限らず、人前で「生きて帰ってきて」とは言いにくかったであろう当時、精一杯の思いを込めて書かれた手紙の数々を読むと、二度とこういう時代になってはいけないと思った。

昭和館会館10周年記念「記された想い ~手紙と日記にみる戦中・戦後~」は、8月30日まで、東京・九段下の昭和館で開催。入場無料。
詳細は昭和館のサイトを参照してください。

それにしても、ポスターのビジュアルがなかなかよかったのに、サイトにはそれが使われていないのは、もったいないなぁ…。
  

2009/08/05

寺子屋が江戸の文芸を開花させた


文楽や歌舞伎の人気演目に「寺子屋」の段がある。
現在でも、たびたび上演される人気演目で、その影響からか、江戸時代に子供たちが通った塾は「寺子屋」と思い込んでいたが、杉浦日向子さんの『うつくしく、やさしく、おろかなり』(筑摩書房)を読んでいたら、こんな一節に出会った。
おもに西日本では、「寺子屋」と呼び、江戸では、もっぱら「手習指南所」、「手跡指南所」と呼んだ。
(「江戸の育児と教育」P.71)


あれ、寺子屋っていうのは、西日本での呼び名だったんだ!
文楽や歌舞伎で上演される「菅原伝授手習鑑」五段目「寺子屋」の段は、義太夫節の演目なので、「寺子屋」だったということで、納得。

「菅原伝授手習鑑」寺子屋(1955) CD









歌舞伎名作撰 「菅原伝授手習鑑」 寺子屋 (DVD)



この「寺子屋」の段をごらんになったことがある方は、よくご存知だろうが、歌舞伎の場合、寺子を演じるのは子役(最近は、児童劇団所属の子供がほとんど)だが、一人だけ大人の役者が「よだれくり」と呼ばれる道化を演じる。この「よだれくり」は、師匠が留守なのをいいことに、必ず途中で手習いをさぼって、「へのへのもへじ」を描く。

ところが、現・市川左團次さんが子役時代(当時は、市川男寅)に、菅相丞(=菅原道真)の一子・菅相才を演じたときに、「へのへのもへじ」を描いていたのを、誰かが舞台写真を見ていて見つけたのだというエピソードを、『劇場歳時記』という著書の中で紹介している。
役の性根からいうと、これはいけないことなのだが、戸板先生はなぜか、微笑ましく感じ「大人になったら、いい役者になるにちがいない」と、確信されたという。
そして、そんな戸板先生が見抜いたとおり、いまや、歌舞伎には欠かせない役者さんになり、テレビや映画でも怪優ぶりを発揮していらっしゃる(笑)。



左團次さんの怪優っぷりを知りたい方はこのエッセイをどうぞ。

俺が噂の左團次だ』(ホーム社)






そんな寺子屋(江戸では、手習指南所、手跡指南所)が、江戸時代中期には各地で普及し、子供の就学率は、なんと80%近かったという専門家もいる。その数、全国で1万5千ほど。これは、驚くべき数字だ。

専門家の推定では、幕末の嘉永年間(1850年頃)での江戸で
の就学率は、70~86%。これを以下のデータと比較してみよう。

・イギリス(1837年での大工業都市) 20~25%
・フランス(1793年、フランス革命で初等教育を義務化・
無料化したが) 1.4%
・ソ連(1920年、モスクワ)20%

 江戸日本の教育水準がいかに群を抜いていたかが分かる。なぜこ
れだけの差がついたのか、単に物質的豊かさだけなら、産業革命に
成功し、7つの海にまたがる広大な植民地を収奪したイギリスの方
が、はるかに有利だったはずである。
花のお江戸はボランティアで持つ より


なぜ、江戸時代には、こんなに高い就学率が実現できたのか?
その理由は、大きく分けると、2つあると思う。

第一に、私学であるにもかかわらず、決まった「月謝」がなかったから。
もちろん、お金に余裕のある親は、現金を謝礼として師匠にわたした。しかし、町人の大多数を占める長屋住まいの多くは、金銭的な余裕がない。そこで、自分の商売物(食べ物や日用品)、あるいは労働奉仕という形で、師匠に謝礼をした。
だから、多くの子供たちは、働きに出る十歳前後までの期間、教育を受けることができた。

第二に、江戸の長屋で暮らす町人は、共働きの率が高かったこと。
父親だけでなく、母親も働きに出たり、家で内職をしたりすることが当たり前だったから、小さな子供が家でウロウロしていると、仕事の邪魔になる。だから、子供たちを手習所に生かせて、その間に、仕事に専念していたのではないだろうか。

現在とちがって、ご近所付き合いが濃密だったから、両親が仕事から戻ってくる前に、子供たちが手習い所から帰ってきても、向こう三軒両隣のおじちゃん・おばちゃん、おじいちゃん・おばあちゃんたちが、子供の様子を見守ってくれる。
そうした、安心感があったから、両親も心置きなく働くことができたと考えられる。


それでは、子供たちは、どんなことを勉強していたのか?
これは、最初に触れた「寺子屋」の段で描かれている通り、数字と平仮名の読書きが主なものだった。日常で使うのは草書体だったので、町人の子供たちは草書を習った(現代とは逆だなぁ、ココ)。
だから、現在まで伝わっている、黄表紙・洒落本の類の書体が、草書なんだな。版木を彫るなら、楷書体の方が彫りやすそうだけどな、と思っていたのだけれど、「みんなが読める」ということの方が重要だからか。
ちなみに、武家の子は、公文書が楷書体を使うため、楷書までは嗜みとして必要だった。
また、地域によって簡単な算術を教えたり、地理・人名・手紙の書き方・職人が使う用語といった、実用的な教育を行ったところも少なくなかった。

町人でも、武士でも、もっと勉強したい(親がさせたい、というのも当然あっただろうが)という子供がいれば、師匠が個人教授を行ったり、さらには学問所を紹介したり、ということで勉強を進めることもできた。

それでは、教える側はどんな人だったのか?
僧侶・神官・武士・浪人・書家などが多かったという。また、足利学校のような、師匠を養成する学校まであった。
ほとんど現金収入にならないのに、なぜ、1万5千もの手習い所があったか? 
その答えを

それでは、なぜ全国で1万5千もの塾ができる程、大勢のボラン
ティアの先生がいたのだろうか。それは、先生になると、たとえ身
分は町人でも、人別帳(戸籍)には、「手跡指南」など、知的職業
人として登録され、生徒には「お師匠様」と尊称で呼ばれ、地域で
も知識人、有徳者として尊敬された。優秀なお師匠様は将軍に直接
拝謁して、お褒めの言葉をもらうこともあったという。

 お師匠様たちは物質的には豊かでなくとも、近隣の人々に感謝さ
れ、尊敬されるという精神的な価値で十分満足できたのである。
「花のお江戸はボランティアで持つ」 より


江戸文芸の発達と繁栄の礎は、寺子屋の普及によって初等教育が行き渡ったことが、築き、支えていたんだなぁ。

  

2009/08/03

あれやこれや

あれやこれやと拡散した興味をひっくるめた全部がわたし。
まだまだ、試行錯誤中。

今まで、世の中のことに、あまり関心を向けずに来たけれど、知っているほうがいいことは、世の中にはまだまだたくさんある、ということに気づいてしまいました。
だから、国内の政治や地方自治も、イランやウイグルの民主化運動も、環境についても、国内各地に残る古きよきニッポンも、自分の好奇心に素直にしたがってみることにしました。

ここは、そんなあれやこれやのカオスの場所。
だから、貼り交ぜ帖と名づけてみました。

どうぞ、よろしく!