文楽や歌舞伎の人気演目に「寺子屋」の段がある。
現在でも、たびたび上演される人気演目で、その影響からか、江戸時代に子供たちが通った塾は「寺子屋」と思い込んでいたが、杉浦日向子さんの『
うつくしく、やさしく、おろかなり』(筑摩書房)を読んでいたら、こんな一節に出会った。
おもに西日本では、「寺子屋」と呼び、江戸では、もっぱら「手習指南所」、「手跡指南所」と呼んだ。
(「江戸の育児と教育」P.71)
あれ、寺子屋っていうのは、西日本での呼び名だったんだ!
文楽や歌舞伎で上演される「菅原伝授手習鑑」五段目「寺子屋」の段は、義太夫節の演目なので、「寺子屋」だったということで、納得。
「菅原伝授手習鑑」寺子屋(1955) CD
歌舞伎名作撰 「菅原伝授手習鑑」 寺子屋 (DVD)この「寺子屋」の段をごらんになったことがある方は、よくご存知だろうが、歌舞伎の場合、寺子を演じるのは子役(最近は、児童劇団所属の子供がほとんど)だが、一人だけ大人の役者が「よだれくり」と呼ばれる道化を演じる。この「よだれくり」は、師匠が留守なのをいいことに、必ず途中で手習いをさぼって、「へのへのもへじ」を描く。
ところが、現・
市川左團次さんが子役時代(当時は、市川男寅)に、菅相丞(=菅原道真)の一子・菅相才を演じたときに、「へのへのもへじ」を描いていたのを、誰かが舞台写真を見ていて見つけたのだというエピソードを、『
劇場歳時記』という著書の中で紹介している。
役の性根からいうと、これはいけないことなのだが、戸板先生はなぜか、微笑ましく感じ「大人になったら、いい役者になるにちがいない」と、確信されたという。
そして、そんな戸板先生が見抜いたとおり、いまや、歌舞伎には欠かせない役者さんになり、テレビや映画でも怪優ぶりを発揮していらっしゃる(笑)。
左團次さんの怪優っぷりを知りたい方はこのエッセイをどうぞ。
『
俺が噂の左團次だ』(ホーム社)
そんな寺子屋(江戸では、手習指南所、手跡指南所)が、江戸時代中期には各地で普及し、子供の就学率は、なんと80%近かったという専門家もいる。その数、全国で1万5千ほど。これは、驚くべき数字だ。
専門家の推定では、幕末の嘉永年間(1850年頃)での江戸で
の就学率は、70~86%。これを以下のデータと比較してみよう。
・イギリス(1837年での大工業都市) 20~25%
・フランス(1793年、フランス革命で初等教育を義務化・
無料化したが) 1.4%
・ソ連(1920年、モスクワ)20%
江戸日本の教育水準がいかに群を抜いていたかが分かる。なぜこ
れだけの差がついたのか、単に物質的豊かさだけなら、産業革命に
成功し、7つの海にまたがる広大な植民地を収奪したイギリスの方
が、はるかに有利だったはずである。
花のお江戸はボランティアで持つ より
なぜ、江戸時代には、こんなに高い就学率が実現できたのか?
その理由は、大きく分けると、2つあると思う。
第一に、私学であるにもかかわらず、決まった「月謝」がなかったから。
もちろん、お金に余裕のある親は、現金を謝礼として師匠にわたした。しかし、町人の大多数を占める長屋住まいの多くは、金銭的な余裕がない。そこで、自分の商売物(食べ物や日用品)、あるいは労働奉仕という形で、師匠に謝礼をした。
だから、多くの子供たちは、働きに出る十歳前後までの期間、教育を受けることができた。
第二に、江戸の長屋で暮らす町人は、共働きの率が高かったこと。
父親だけでなく、母親も働きに出たり、家で内職をしたりすることが当たり前だったから、小さな子供が家でウロウロしていると、仕事の邪魔になる。だから、子供たちを手習所に生かせて、その間に、仕事に専念していたのではないだろうか。
現在とちがって、ご近所付き合いが濃密だったから、両親が仕事から戻ってくる前に、子供たちが手習い所から帰ってきても、向こう三軒両隣のおじちゃん・おばちゃん、おじいちゃん・おばあちゃんたちが、子供の様子を見守ってくれる。
そうした、安心感があったから、両親も心置きなく働くことができたと考えられる。
それでは、子供たちは、どんなことを勉強していたのか?
これは、最初に触れた「寺子屋」の段で描かれている通り、数字と平仮名の読書きが主なものだった。日常で使うのは草書体だったので、町人の子供たちは草書を習った(現代とは逆だなぁ、ココ)。
だから、現在まで伝わっている、黄表紙・洒落本の類の書体が、草書なんだな。版木を彫るなら、楷書体の方が彫りやすそうだけどな、と思っていたのだけれど、「みんなが読める」ということの方が重要だからか。
ちなみに、武家の子は、公文書が楷書体を使うため、楷書までは嗜みとして必要だった。
また、地域によって簡単な算術を教えたり、地理・人名・手紙の書き方・職人が使う用語といった、実用的な教育を行ったところも少なくなかった。
町人でも、武士でも、もっと勉強したい(親がさせたい、というのも当然あっただろうが)という子供がいれば、師匠が個人教授を行ったり、さらには学問所を紹介したり、ということで勉強を進めることもできた。
それでは、教える側はどんな人だったのか?
僧侶・神官・武士・浪人・書家などが多かったという。また、足利学校のような、師匠を養成する学校まであった。
ほとんど現金収入にならないのに、なぜ、1万5千もの手習い所があったか?
その答えを
それでは、なぜ全国で1万5千もの塾ができる程、大勢のボラン
ティアの先生がいたのだろうか。それは、先生になると、たとえ身
分は町人でも、人別帳(戸籍)には、「手跡指南」など、知的職業
人として登録され、生徒には「お師匠様」と尊称で呼ばれ、地域で
も知識人、有徳者として尊敬された。優秀なお師匠様は将軍に直接
拝謁して、お褒めの言葉をもらうこともあったという。
お師匠様たちは物質的には豊かでなくとも、近隣の人々に感謝さ
れ、尊敬されるという精神的な価値で十分満足できたのである。
「花のお江戸はボランティアで持つ」 より
江戸文芸の発達と繁栄の礎は、寺子屋の普及によって初等教育が行き渡ったことが、築き、支えていたんだなぁ。