2009/12/22

「鳥目」

歌舞伎や狂言、落語を見聞きしていると、時おり「お鳥目(チョウモク)」という言葉が出てくる。
これは、お金のことを表す言葉なのだ、というのは前後のつながりやら何やらで、類推できるのだけれど、その語源について、狂言の茂山千之丞さんの『狂言じゃ、狂言じゃ!』という本に出てきたのが
穴空き銭の形が、鳥の目に似ているところから、鳥目という
P.188
という記述。

なるほどねぇ~、と思っていたら、そのちょっと後に読んだ、種村季弘さんの『雨の日はソファで散歩』にも、この「鳥目」についての記述が出てきた。
江戸時代の銭貨は円形方孔、つまり丸い銭に四角の孔があいていた。これが鳥の目に似ているところから金銭のことをお鳥目といった。
                             「鳥目絵の世界」P.117
今の穴あき銭は、丸い形に丸い孔が空いているけれど、たしかに、写真や博物館の展示で見たことのある江戸の銭貨は、四角い孔が空いていたな・・・。

で、種村さんの方は、ここから絵画の技法についての話に発展していく。
ところがその下に絵がつくと、これまた意味が変わってくる。鳥目絵。文字通りバーズアイの俯瞰図のことだ。
さて、鳥目絵といって、誰でも思いたるのが広重『江戸名所百景』の「深川洲崎十万坪」だろう。


(略)
その眺望をもっと遠大にすると北斎「東海道名所一覧」のような鳥目絵になる。


(略)
師宣の「東海道追分間図絵」は現実の遠近関係を無視してまで海道筋の名所旧跡を派手に際だたせている、地図というよりその名の通り「図絵」だ。
「鳥目絵の世界」P.117-118
というふうに、鳥目は鳥目でも、こちらは鳥の目で描いた絵の話に発展してしまった。
ちょうど、種村さんのこの記述を読んだ時に、浮世絵の展覧会で、広重の「深川洲崎十万坪」を実際に見た間なしだったので、「あ、あれね!」と思ったのだった。

そして、種村さんは、これらの鳥目絵について、見たいものだけが描き込まれており、元禄から江戸中期にかけて、多く描かれていることから、町人が物見遊山を楽しむ余裕ができるようになったことから産まれた、と考察している。
奈良時代の「春日曼荼羅」から室町時代の各種洛中洛外図を経て、元禄期の温泉案内図や登山図を経て、近代の吉田初太郎らの作品にまで系譜だててみることができる点から、子供の遊戯や神事から生まれたものであろうと、考えている。

さらに、種村さんは春画と鳥目絵、そしてエドガー・アラン・ポーの「ランダーの別荘」という作品にまで論を広げていく。
春画と鳥目絵の同一視、もしくは対応関係は、一見突飛な思いつきと思う人もあるかもしれない。しかし、ひょっとすると、鳥目絵の本質はここにこそ露呈しているかもしれない。
人体(小宇宙)と山水(大宇宙)の対応と同一視。古来からの鳥瞰図は透視図法の未熟の産物ではなくて、むしろカッコとした宇宙・世界観の表現だったとわきまえるべきだろう。
「鳥目絵の世界」P.120
春画においては、秘部をことさら強調して描かれる。それは「見たいものだけを描く」という鳥目絵の特徴に通じている、というのだ。
そして、中井久夫が描いたポーの「ランダーの別荘」再現地図について
道教の胎生図たる内経図そっくりであり、さらには北斎や吉田初三郎の秘密くさい開口部がエロティックな窪みを形作っている山岳鳥瞰図にも酷似している。パノラミックな鳥瞰図が収斂していく先は、おそらく洋の東西を問わずに、胎生空間であるらしいのだ。
「鳥目絵の世界」P.122
たしかに、春画の構図のグロテスクなまでのアンバランスさ、というのは、「見たいもの」を強調しているのであり、山岳鳥瞰図にも似ている、というのにも、頷けるなぁ~と思った。
  

2009/10/22

「爆笑問題のニッポンの教養」FILE088は「カブキズム!」だった

毎回視聴する、というほど熱心なファンではないが、時々興味のあるテーマだと見ている「爆笑問題のニッポンの教養」(以下「爆問」と略す)。10月21日は河竹登志夫さんをゲストに迎えて、歌舞伎がテーマとのことで、見ていた。

河竹先生の著書


河竹登志夫『作者の家 第一部』(岩波現代文庫)









 『河竹登志夫歌舞伎論集









見ながらTwitterに要旨をUPしたので、そのログをもとに、まとめてみる。
歌舞伎座前から Na)歌舞伎座は2010年5月から建て替えに入る。
田中「今日たずねるのは、歌舞伎に関係ある方=河竹登志夫先生。ご先祖様が歌舞伎作者」
黙阿弥の写真 Na)幕末から明治にかけて活躍した天才歌舞伎作者。
VTR「白浪五人男」稲瀬川勢揃いの場(團十郎さん、菊五郎さん)
VTR「三人吉三」大川端の場(時蔵さん) 「こいつは春から縁起がいいわえ」
Na)数々の名台詞を残した。

VTR「古式手打式」にて演目を読み上げる河竹先生

VTR「寿曽我対面」三津五郎さまの五郎!w

河竹先生を訪ねる爆笑問題 研究室? デスクの上にはカエルのコレクションの一部
23:04 河竹先生は、カエルがお好き #kabuki #nhk #
河竹「自分は、両生類みたいな生き方をしてきたなぁと思う」

 



  • 23:06 天覧歌舞伎の解説をつとめ、早稲田大学名誉教授。比較演劇学を開拓。河竹「はじめから難しい、遠いものだと思わず、とにかく見てみよう!」 #kabuki #nhk #








  • 23:07 太田「学校から言われて、歌舞伎座に見に行ったけど、途中で抜け出していた。あの時代、アングラが面白かった」 #kabuki #nhk # 








  • 23:08 河竹「小劇場は、面白かった。歌舞伎と同じ。西洋流のリアリズムではありえない」





  • 歌舞伎は交流である
    幕がない=出雲の阿国がそうだった。



  • 「歌舞伎や小劇場というのは、垂直に来るけど、西洋リアリズム演劇は水平」 kabuki #nhk #





  • VTR「勧進帳」花道の飛び六法



  • 23:09 河竹「テレビとは違う、生の交流がある。今は鑑賞するものになっているけれど、昔はひとつの生活の場。錦絵を見るとよくわかる」 #kabuki #nhk #





  • VTR「菅原伝授手習鑑」車引 松緑



  • 23:10 河竹「客が率直だったから、よければ褒めるし、よくなければ物を投げたり騒いだりする。そういうお客を黙らせ、自分の芝居を見せるには、力がいる。今の歌舞伎は、そういう行儀の悪いお客との交流によってできた」 #kabuki #nhk #





  • 河竹「行儀の悪い客によって作られた。大衆的なエンターテイメントだった」

    太田「われわれにとっては、能・狂言・歌舞伎を一くくりに見てしまうが、それぞれはまったく違う? 歌舞伎はその中でも、特に自由だった?」



  • 23:11 河竹「歌舞伎ぐらい、どん欲な演劇はない」#kabuki #nhk #





  • VTR「スーパー歌舞伎 新八犬伝」



  • 23:12 太田「学校とは、いつもぶつかっていた。もっとダイナミックなものをやりたいと思っていた。自分の感情に近いものを表現したかったが、演技論を読むと、必ず型を学べと書いてあった。形を学ぶことで、心は後から入って行くと」 #kabuki #nhk #





  • VTR「王貞治の1本足打法」!



  • 23:13 太田「われわれは、型のためにやっているのかな? 型になものを作らなくては残らないのかな、と思う」 #kabuki #nhk #









  • 23:14 河竹「指1本が型になり得る。役柄の年齢が表せる、それが歌舞伎の一番の特徴かもしれない」 #kabuki #nhk #





  • VTR「勧進帳」花道の飛び六法(團十郎さん)



  • 23:17 河竹「型の一番の特徴は、死そのものを美化しようとする。残虐な場面が、それが一番顕著。忠臣蔵五段目は典型的な例。鉄砲で撃たれて死ぬ時の死に方が、役者の一番の見せ場。いかにいい形で死ぬところを見せるか。初代仲蔵が作った方」 #nhk #kabuki #





  • 河竹「海外でも殺し場はあるけれど、唯物的に殺してしまう」

    太田「殺しを美化する、それは確かに日本的だな」

    河竹「忠臣蔵五段目の定九郎」

    VTR「仮名手本忠臣蔵」五段目山崎街道(團十郎)

    河竹「猪が来たので驚いて、一旦隠れて、出てくると、勘平に撃たれる。いかにいい形で死ぬかという。これは、初代中村仲蔵が作った型。初めて座頭役がやる役にしてしまった」



  • 23:17 太田「今のを見ると、拍手を送ったり声をかけたくなる。外国の人から見ると不思議だろうな」 #kabuki #nhk #





  • VTR「女殺油地獄」(仁左衛門さん、孝太郎さん)



  • 23:18 太田「日本人がずっと抱えている、死に対するあこがれ? 外国人は死を下にすると思うが、日本人は死を上に持ち上げるのではないか? 仲蔵がやったような死の美化をする演劇は、外国にはない?」 #kabuki #nhk #







  • 23:19 河竹「わたしが調べた限りではない」 #kabuki #nhk #





  • VTR「コクーン歌舞伎 三人吉三」(勘三郎さん)



  • 23:20 河竹「芝居が身近すぎたので、趣味で見ている方が楽しそうだと思った」 #kabuki #nhk #





  • Na)歌舞伎作者を曽祖父に、演劇学者を父に持ったが、最初に目指したのは物理だった。



  • 23:21 河竹「物理が好きだったのは、数式が美しかったから。それが芝居の美しさと共通していたと、後になって気づいた。歌舞伎を知ろうと思うと、海外のものを知らないと、と思った」 #kabuki #nhk #





  • 河竹「だから、両生類なんですよ」

    太田「われわれは、先生がおっしゃる物理の公式とか、歌舞伎の型に対抗できないんじゃないかと思う」



  • 23:22 河竹「型から入って、型から出る。自分で膨らまして行かなければいけない。暫の隈取り、青いのは悪党、赤いのは正義、強さを表す」 #kabuki #nhk #





  • VTR「暫」(團十郎さん)



  • 23:24 太田「欧米人が真似できないと思うのは、所作とか日本人は個を消すことを目指す。時代をを全部背負って表現する。個性を出したいと思うのが、全部もみ消されてしまう。それが悲しさでもある。大きな一つの役者をそれぞれの時代時代で作っていて、一人一人の個性は消えてしまう」 #kabuki #nhk #







  • 23:25 河竹「個よりも典型。個を滅却する。女形はその典型だと思う。蕪木作者は”三親切”=役者・見物・座元に親切。作者に親切とはひとつも書いてない。三親切を守って、典型を作ることが作者の使命。だから型という典型を作る事につながる」 #kabuki #nhk #





  • VTR「弁天小僧」(菊五郎さん)

    河竹「その時代の典型、人物のあるべき姿、それが型だと思う」



  • 23:27 河竹「歌舞伎とは、人間の典型のドラマである。その時代のあるべき人間の姿を表現する。能は憂き世、あの世で生きようと考えた。歌舞伎は浮き世。どうせ死ぬならこの世で楽しく過ごそう」 #kabuki #nhk #





  • 河竹「“憂い世”と“浮き世”が、日本の特徴だと思う」

    河竹登志夫『憂世と浮世―世阿弥から黙阿弥へ (NHKブックス)




  • 23:27 河竹「現代は、浮き世」 #kabuki #nhk #







  • 23:28 河竹「なぜか、次々に支える人が出てくる。そしてそれを応援するお客が出てくる。それが本質かもしれない」 #kabuki #nhk #





  • 河竹先生、80歳を超えてなお、矍鑠なさっていて、ダンディでした。
    お話の内容も、わかりやすく、かつ本質をついていて、さすがだと思います。

      

    2009/10/10

    小林清親の「新東京雨中図」に、思いがけなくご対面@三井記念美術館

    日本橋の三井記念美術館で開催中の「夢と追憶の江戸 −高橋誠一郎浮世絵コレクション名品展−」を見てきた。
    この展覧会、会期が3期に別れていて、第1期は12日までなので、今日を逃すともう見に行けないことにきづいたのであった。 


    浮世絵の歴史に沿って、各展示室に陳列されていた中でも、写楽をはじめとする役者絵や吉原の花魁を描いたものなどが、目当てだった。どれも状態がよく、展示数も多すぎず少なすぎず、いい感じだった。
    そして、最後の展示室に、月岡芳年の芝居から題材を得た「松竹梅湯嶋掛額」の櫓のお七や、「船弁慶」を題材にした「月百姿 大物海上月 弁慶」、「安達原」を題材にした「奥州安達がはらひとつ家の図」、そしてあの小林清親の「東京新大橋雨中図」の実物が見られたのが、とてもうれしかった。






    小林清親については、杉本章子さんがその名もズバリの小説『東京新大橋雨中図』(文春文庫)を書いている。




    清親と杉本さんの作品を教えてもらったのは、中野翠さんのコラムだった。たぶん、『あんまりな』(毎日新聞社)ではないかと。






     

    で、 清親の弟子の井上安治については、杉浦日向子さんが『YASUJI東京』(ちくま文庫)という作品を描いていて、それも芋づるで、一連として読んだ。




    今回、清親の作品でもう1点「浜町より写 両国大火 明治四年一月廿六日出火」が展示されていて、これがまた、とてもわたし好みであった。


    江戸の浮世絵を見に行ったつもりが、思いがけず明治の浮世絵師・清親の作品に対面できて、しかもずっと見たいと思っていた「東京新大橋雨中図」の実物が見られたので、がんばって行った甲斐があったというもの。
    中期・後期にも芝居や役者絵はもちろん、清親作品も出るとのことなので見に行きたいと思っている。
      

    2009/10/04

    きものもアートだった?!@「肉筆浮世絵と江戸のファッション」展

    ニューオータニ美術館で「肉筆浮世絵と江戸のファッション」という展覧会が開かれているのを、twitterで「弐代目青い日記」の@taktwiさんに教えていただいたので、仕事も片付いたことだし!と行ってみた。

    そもそも、ニューオータニの中に美術館があるのなんて、ぜんぜん気付いてなかったわたくし…。
    日曜とはいえ午後遅い時間のため、そもそも人が少ない。
    最近、展覧会に行くと人がたくさんで、それだけで萎えることが少なからずあるので、これはうれしい。

    展示は、17世紀後半から、時代を追って肉筆浮世絵とひなかた、そして小袖(帯も少々)を組み合わせていた。
    肉筆浮世絵は、8月に江戸東京博物館でたくさん見たので、それに較べるとちょっと…とか思ってしまった。実は、一番最初に展示してある、サントリー美術館の「舞踊図」屏風が一番よかったかも…(汗)。
    とにかく江戸期の小袖をいろいろと見ることができたのがうれしかった。
    もちろん、布というのは、経年変化には弱いものなので、作られた当時の色とはだいぶ変化しているのだろうけれど、江戸期の刺繍や絞り、手描き、箔、地紋といった手間をかけた仕事を間近で見ることは、なかなか機会がないのでじっくりと。
    そして、一通り展示を見終えた後、振り返ってみたら「ああ、江戸期のこういう小袖っていうのは、単なる衣料品ではなく、美術品でもあったんだなぁ」ということを改めて感じた。

    近くで手仕事を見ているときには気付かない、全体の構図や色・柄の取り合わせの大胆さは、現代のきものにはない。
    展示から離れて見て、わかることもあるんだなぁ…。

    たとえば、寛文期の「黄綸子地雪輪竹模様小袖」。
    近くで見ていると雪輪がイマイチよくわからないのだけれど、離れて全体を見ると「なるほど!」と。
    公式サイトによると、この時代はすでに桃山期の影響を脱して、江戸独自の最初の流行とのこと。

    そして元禄期になると、友禅染が発達し、さらに、帯の幅が広がることによって、上半身と下半身の柄が分かれ、そこからさらに「腰模様」と呼ばれる、腰から下に模様を施すスタイルが流行していく。

    それが、江戸の人々の「粋」という美意識によって、「裾模様」と呼ばれるきものの裾の部分のみに模様を施すスタイルが生まれる。
    その例として展示されているのが「白綸子地松竹梅模様小袖」。

    また、逆に帯の位置に左右されない意匠としての「総模様」が誕生した。これは、現代の「小紋」に通じるデザインかな?
    その例が「白縮緬地垣楓模様小袖」。

    それにしても、こんな小袖をどんな女性が身にまとっていたのだろう? 一緒に展示されている浮世絵の題材になっているのは、ほとんどが遊女なので、やはり吉原あたりの花魁なのかな? 
    そして、きもののほとんどが国立歴史民俗博物館の所蔵品。やはり、一度、折りを見て、佐倉まで行くべき???

    こじんまりとした会場なので、点数は多くないけれど、なかなかステキな展覧会だった。
    特に、きもの好きな方には、オススメ。
    10月25日までが前期で、10月27日から展示替えが行われて、違う作品も見られるとのことなので、後期も見にいきたいな、と思う。


    ※上記で名前をあげたきものの画像は、「肉筆浮世絵と江戸のファッション 町人女性の美意識」で見られるので、ご参照ください。

    <参考になりそうな本>

    長崎巌監修『小袖雛形』(青幻社)

     

     

     

     


    長崎巌『小袖』(ピエ・ブックス)

     

     

     

     

     


    別冊太陽『小袖からきものへ 骨董を楽しむ55』(平凡社)

     

     

     

     

     

    戸板康二『元禄小袖からミニ・スカートまで―日本のファッション・300年絵巻』(サンケイ新聞出版局)


      

    2009/09/30

    「子供のがんは治ってからがまた闘いなのです」

    「こういうと語弊がありますが、わかりやすく言うと、大人のがんは、治ればそれで『よかったね』と祝ってすむけれど、子どものがんは、そこからまた、闘いが始まるのです」

    これは、小児がんにかかった子供とその家族をサポートする財団法人「がんの子供を守る会」会長の言葉だ。
    ちょっと狐につままれたような気分でこの言葉を聞いたのだけれど、そこから先のお話を伺って、「あ、そういうこともあるんだ」という、「闘い」の内容に正直なところ、驚いた。

    子どものがんは、白血病が多いそうだが、それ以外にもいろいろな種類のがんがあり、たいていの場合、大人に比べてその進行が早いという特徴があるそうだ。
    しかし、近年は、有効な治療薬の出現、医療技術の進歩のおかげで、治癒率はずいぶん上がっている。
    ただ、病気が治った後に彼らを待ち受けている"もまた、手ごわいものであるようだ。

    たとえば、
    ○闘病によって、学校を休んだことで勉強が遅れてしまい、進級や進学に支障を来たすこと。
    この件は、まぁ想像はできた。
    しかし、
    ○治療にともなって、放射線を大量に浴びざるを得なかったり、化学療法の薬品の後遺症が残ることも、少なからずある。
    ○がんを患ったことを進学や就職に際して、履歴書などに、そのことを記載するかどうか。
    ○結婚するにあたって、がんを患っていたことを相手とそのご家族に受け入れてもらえるか。
    といったことになると、会長さんのお話を伺ってはじめて「あ、そうか」気付かされた。おそらく一般の人にはなかなか、そこまで思い至ることは難しいのではないだろうか。
    実際、子供の頃にがんを患っていたことが理由で、本人同士は意志を固めていても、ご家族の反対に遭って結婚できないというケースもあるそうだ。
    完治したとされ、治療を受けることは終わったとしても、子供のがんを患った人たちは、その後もまだまだ"がん"と闘っていかなければならない、という現実は、もっと広く知ってもらいたいと、会長さんのお話を伺っていて感じた。

    がんの子供を守る会」の公式サイトの「小児がん経験者の自立支援」というページを見ていくと、
    ○長期の入院や療養生活の結果、普通の子供たちと同じような生活が送れないことがある
    ○慢性的な頭痛や倦怠感、体力の減退といった障がいが、認定されていない
    といった問題点をサポートするための事業が、行われていることがわかる。

    さらに「きょうだいの支援」というページもあり、病気に罹った子供だけでなく、その子の兄弟にもまた、サポートが必要だということにも気付かされた。

    患者家族への経済的な支援はもちろんだけれど、医療の進歩のための助成、治癒した後のサポート、そして残念ながら亡くなってしまった子供のご家族への支援、課題はたくさんあるのだなぁ、ということを知った。

    これは、9月28日に、紀尾井ホールでKame Pro Clubと三響會倶楽部共催の「伝統芸能の今」という公演での、「がんの子供を守る会」会長さんのご挨拶の中で触れられたことである。
    「伝統芸能の今」というのは、市川亀治郎さんと三響會(能楽囃子方の亀井広忠さん、歌舞伎囃子方の田中傳左衛門さん・傳次郎さんのご兄弟が主宰する会)が、一緒に演奏や舞踊を行う公演。
    今回、チケット代の一部(千円)をゴールドリボン基金に寄付すると、案内されていた。

    演奏と演奏の間に、トークのコーナーがあり、そこでメンバーによる芸談などの話の後、ゴールドリボン基金についての説明と、会長さんのご挨拶があった。
    亀治郎さんと三響會のみなさんは、今後も年に一度はこうした活動を行っていきたい、と話された。
    何か、社会に貢献することができる活動をしたい。そのためには、自分たちは芸をみなさんに見て聞いていただくことしかできないので、こういう会を開くことにした。これをきっかけに、みなさんにも、「がんの子供を守る会」の活動に興味を持ってもらいたい、といったことを亀治郎さんとこの会の?企画部長の傳次郎さんが話していた。

    チケット代からの寄付とは別に、当日、ロビーでも募金活動が行われていて、開演前は亀治郎さんと田中兄弟が、終演後は広忠さんが募金を呼びかけていたので、終演後に些少ながら、寄付をさせていただいた。

      

    2009/09/08

    マンガが敷居を下げる

    マンガといえども、侮るべからず!と大人になってから思ったのは、数年前に、みなもと太郎さんの『風雲児たち』を読んでからだ。



     みなもと太郎『風雲児たち(1)』








    この作品を読んで、それまでに読んだ歴史小説や歴史書では出会ったことがない「歴史観」に出会ったし、マンガ家さんの調査力とか洞察力ってスゴいなぁ~と、遅ればせながら思ったのであった。
    で。能を少しずつだが楽しめるようになってきたのもまた、マンガ作品との出会いがきっかけだったので、「すぐれたマンガ作品に出会ったら、それまであまり得意じゃなかったり、とっかかりがつかめなかったモノの敷居が下がるんじゃないかな?」と思ったのだ。

    日本の芸能っていうのも、一般的には、敷居が高いものの部類に入るといって、いいだろう。
    日常生活がすっかり、欧米化してしまった現代では、それも、ある意味当然のこと。
    わたしは、歌舞伎は、わりとすんなり見ることができたのだけれど「お能は結構、敷居が高かったなぁ、自分にとっては」と思う。
    大学の卒論で、お能にも若干関係するテーマを取り上げたので、学生時代とその後、数回は見たことがあったし、立原正秋の小説が好きだったので、イメージとしての「能」というのは、あったのだけれど、実際に能楽堂へ足を運んで舞台に接してみると、「うーん、よくわからん!」というのが、正直なところだった。

    20代からの念願だった、歌舞伎囃子の稽古を始めて、師匠とお稽古の合間に雑談をしているうちに、「これは、能の囃子についても知らないと!」と思ったものの、どんな舞台を見ればいいのかもよくわからず、とりあえず、うちの流儀と関係の深い囃子方の人間国宝の先生の舞台を見てみることにして、チケットを入手して見に行った。
    比較的最初の頃に、金春惣右衛門先生と亀井忠雄先生が出ていらした「石橋」連獅子を見たのは、大きかったと思う。
    お二人の囃子の芸にすっかり圧倒されて、しばらくは見たい囃子方メンバー(上記お二人の他、小鼓の大倉源次郎先生、笛の一噌仙幸先生など)の舞台を探しては見に行っていた。

    そんな時に出会ったのが、成田美名子さんの「花よりも花の如く」というマンガ。




    成田美名子『花よりも花の如く(1)』



     現在第7巻まで単行本化されている。






    長らく少女マンガを読んだことがなかったので、成田さんのお名前は、まったく知らなかった。
    ただ、作品を描くにあたって、成田さんがかなり能をご覧になっているであろうことは、伝わってきた。そういう作者の真摯な姿勢が好もしく思えた。また、主人公が連載スタート時は書生で、いろんな役演じ、また披きを経験して、独立するという、能楽師としての成長ストーリーは、能初心者にも共感しやすく、読みやすく、すっかりハマってしまった。

    その後、この連載のもとになった「Natural」の11巻も購入したw

    そうこうしているうちに、囃子以外の要素にも、目と耳が行くようになったものの、「仕舞」はよくわからないし、謡の詞もイマイチ聞き取れない。
    これはやはり、お稽古してみた方が、より楽しめるのかも!と思い始めたところで出会ったのが、われらが柴田稔先生の「短期能楽教室」。
    能を見始めた頃から、ネットで検索して、能楽師の方、能をよくご覧になっている方のBlogやサイトは拝見していたのだけれど、柴田先生のBlogもその一つだった。
    ご自分がシテをなさる曲のほかに、日々の舞台についての解説やちょっとした裏話などを、写真を交えて紹介して下さるので、「あ、あれはそういうことだったのか!」という気付きをたくさんいただいていた。
    そこに「短期能楽教室」の生徒募集の文字が! お稽古してみたいとは思い始めたものの「いきなり個人稽古はちょっと敷居が高いなぁ~」と思っていたので、とてもリーズナブルな参加費でグループレッスン&銕仙会のお舞台での発表会というのは魅力的だわ!と。
    成田さんが「花よりも花の如く」を描くのに協力されているのが、主に銕仙会の皆さんだったというのも、後押しとなり、メールで受講申し込み。
    気がつけば、1年半、楽しくお稽古を続けているというところ。

    お稽古を始めてみると、以前は退屈に感じてしまった仕舞が、楽しくなった。仕舞を見る時のポイントが、なんとなくわかってきた気がする。また、自分が知っている型が出てくると「あー、この間出てきた型だわ!」みたいなことも考えるようになってきたし。
    また、謡の詞も少しずつ、聞き取れるようになってきた。お稽古していただいた曲はある程度は覚えているということもあるのだけれど、それ以外の曲でも聞こえてくるようになるのが、不思議。耳が慣れてきたのかな??? もっとも、観世流以外は、聞き取れないことも少なくないけど(汗)。

    成田さんの「花よりも花の如く」に出てきた曲は、わりあい初心者にもわかりやすくて、見所がはっきりしている曲が多いので、これを読んでから、その曲が出る会を見に行ったりするのも、よいかもしれないなぁと思う。


    ちなみに、最近は歌舞伎役者が主人公のマンガもある。


     たなか亜希夫・デビッド宮原『かぶく者(1)』




     現在、第5巻まで単行本化済み。




    これが現実離れしているといえばいえるのだけれど、結構、「この人のモデルは、あの人?」と推理するw楽しみもあったりして、単行本が出るたびに購入して読んでいる。

    政治や経済、外交も、いいマンガがあったら、もっと身近に感じられそうだし、基礎知識は得られそうだなぁ。

      

    2009/09/07

    「勧進帳」あれこれ

    今月の歌舞伎座は、なんとなくチケットをとりそびれたまま、になっている。
    土曜日に、とある三味線音楽の演奏会を聞きに行った後、思い立って歌舞伎座へ。
    「勧進帳」を幕見することに。

    「勧進帳」といえば、昨年4月?の仁左衛門さんの弁慶、今年2月の吉右衛門さんの弁慶、ともに大変すばらしかった。

    吉右衛門さんは、熱いハートを理性でくるんだような、弁慶さんだった。幕外の飛び六法もシンプルだけど力強さにあふれていて、まさに「頼りがいのある男」の象徴であった。
    囃子も傳左衛門さん以下、揃っていたし、四天王は、染五郎・松緑・菊之助・段四郎という豪華版、そして富樫は菊五郎さん、という超豪華な「勧進帳」を堪能できた。
    (序幕が、三津五郎さまの「蘭平」だったので、3回も見てしまった・・・汗)

    仁左衛門さんの「勧進帳」は、”江戸前”の弁慶さんとはちょっと違って、ある意味「クサ」かったけれど、とてもドラマティックな「勧進帳」だった。弁慶っていう人は、こういう人だったんだろうなぁ~、という説得力にあふれていた。
    富樫が、勘三郎さんで、実はあまり期待していなかったのだけれど、この富樫がまた、よかった。
    勘三郎さんの、かなり抑えた富樫が、弁慶をより引き立てていた、という感じ。
    こちらもまた、囃子は傳左衛門さん以下の田中社中の皆さんが、気迫あふれる演奏で、芝居を盛り上げていた。

    あと、「勧進帳」といえば、やはり團十郎さんは外せない。
    とにかく、花道に出てきた時のあの存在感は、誰にもまねできないものがある。
    身体が弁慶になっているんだなぁ、團十郎さんの場合は。
    できれば、歌舞伎座建替え前に、もう一度、拝見したいものだが・・・。


    「歌舞伎名作撰 勧進帳」










    團十郎さんといえば、パリオペラ座でも「勧進帳」をなさっている。


     市川團十郎・市川海老蔵 パリ・オペラ座公演 勧進帳・紅葉狩(DVD付) (小学館DVD BOOK―シリーズ歌舞伎)









    で。今月の「勧進帳」。
    見る前から「吉右衛門さんの富樫が見たいんだもの」と、自分に言い訳w。
    期待にたがわぬ、大変結構な富樫だった。最後、定式幕が引かれるときの型が、とても大きくて、富樫に惚れた・・・。
    染五郎さんの義経も、品があって、若手の中では今、一番、義経がニンにあっているかも???と思った。
    今月は、囃子もやや手薄な感じだったなぁ・・・。ま、モナコと平成中村座があるから、しょうがないんだけど。あ、11日に三響会をなさるってことは、お二人とも、モナコ???


    昼の部は、芝翫さんの踊りがあるし、「竜馬がゆく」もあるので、通しで見たいと思いつつ、予定がハマらない・・・。

    ちなみに。
    「勧進帳」は、能「安宅」を七代目市川團十郎が歌舞伎にうつしたもの。
    お能に遠慮して「勧進帳」という題にしたのかな?と思っていたら、実は、能「安宅」の小書に「勧進帳」があって、この小書をつけないと、山伏が全員で勧進帳を読むのだそうだ・・・。
    それはそれで、見てみたい気もw。

    それと。芝居の地で演奏される「勧進帳」は、素の長唄としても、大変な名曲だとわたしは思う。
    比較的入手しやすいのは


    「芳村伊十郎長唄全集12 助六・勧進帳」









    で、本命は


     
    このCDに収録されている、四代目吉住小三郎の「勧進帳」は、すばらしいと思っている。





    あと、「安宅」や「勧進帳」に関係する本










    これは、去年書店で見かけて買って読んだのだけれど、弁慶の装束や「勧進帳」とはどんなものなのか、などの解説が面白かった。





      

    2009/09/06

    今度、平成中村座に会えるまで

    久しぶりで、銀座・教文館に寄ってみた。
    2階の歌舞伎本コーナーで、新刊を発見!
     

    『拝啓「平成中村座」様』(世界文化社)






    明緒さん(串田和美さんの奥様らしい)の写真と、平成中村座の主立ったメンバーの、平成中村座に宛てた手紙、勘太郎くん・七之助くんと串田さんとの鼎談で構成されている。

    平成中村座は、何度か見に行っていて(最初の数回は、見る事ができなかったのが、今となってはとても残念)、大好きだ。
    雨が降れば屋根を雨粒が叩く音が、花屋敷からはお客の歓声が、救急車やパトカーが通ればサイレンの音が、といった案配で、決して劇場としてはいい環境ではない。
    でも、芝居小屋としては、その混沌としたところが楽しい。

    去年の公演は、桜席で「忠臣蔵」と「法界坊」を見る機会を得た。
    開幕前、幕が引かれた後、舞台でどんなことが起こっているのかを、見て、肌で感じる事ができて、とても楽しかった。
    大道具さんが道具を出したり引っ込めたりする様子。
    幕が開くのを待つ役者さんたち。
    「忠臣蔵」の大序で、下手の幕溜で、「置鼓」という小鼓の手を、幕が開くのと息を合わせて打つ傳左衛門さん。
    道具の陰で合引を抱えて控えている黒子さん。
    すぐそこに仁左衛門さんの大星が! 勘太郎くんの勘平が! 勘三郎さんの判官が!と、興奮したよなぁ…。

    「法界坊」では、わたしのまん前の席に、出を待つ勘三郎さんが突然現れて、周りのお客に「暑くないですか?」とか「見にくくないですか?」などと話しかけてくれた。
    したたる汗を見かねて、お扇子で勘三郎さんをあおいであげたり(団扇じゃないと効果はあまりなかったけどw)。

    平成中村座は、ほんとに小さな小屋で、役者さん・地方さん・裏方さん・表方さんが一体になった熱が、直接客席に伝わってくる。そして彼らが、わたしたち客をもてなすばかりでなく、一緒に楽しんでいるのが感じられる。
    ここでは、芝居の最中でも、お弁当やおやつを食べたり、お酒やお茶を飲んだりしながら見てください。
    芝居って、もともとはそうやって見るものだったんだから、と勘三郎さんは言う。
    結局いつも、見ながらお弁当を食べる間もなく、芝居に引き込まれてしまうのだけれど、江戸時代の人たちは、きっとこんな感じで芝居を見て、楽しんでいたんだろうな、と思えるのが、平成中村座という芝居小屋だ。

    この『拝啓「平成中村座」様』で、勘三郎さんをはじめとした役者さん、串田さんが書いた手紙を読みながら、明緒さんの写真を見ながら、今までに見た舞台のあれやこれやが、頭の中で走馬灯のように甦ってきた。
    そして、舞台の感動までもが、そのまま思い出された。

    たぶん、来年の秋あたりにまた、平成中村座に再会できるはず。
    今度はどんな芝居を見せてくれるのだろう?あの小屋で。
    それまで、時々、この本を取り出して、思い出すことにしよう。

      

    2009/09/02

    『「でっけぇ歌舞伎」入門」』は市川海老蔵へのラブレター

    8月の新橋演舞場で見た「石川五右衛門」は、まだいろいろとブラッシュアップしていくべき点は見られたものの、新作歌舞伎としては、一度限りには終わらない可能性を感じさせる作品だった。
    その「石川五右衛門」の原案を書いた、樹林伸さんによる、歌舞伎入門書が、8月下旬に上梓されたので、さっそく購入して読んでみた。


     樹林伸『「でっけぇ歌舞伎」入門 マンガの目で見た市川海老蔵』
    (講談社+α新書)










    「はじめに」で、樹林さんは
    十一代目市川海老蔵という役者に出会うことによって、僕自身、大きく変わりました。
    たとえば、歌舞伎にたいする考え方です。
    歌舞伎をまったく知らなかった僕は、歌舞伎をすごく限定的なエンターテインメントだと考えていました。
    (中略)
    でもじっさいにはぜんぜんちがっていた。歌舞伎という芸能はまだ生きているし、成長を続けている。市川海老蔵は新しいチャレンジをしようとしているし、そのチャレンジによって四百年という長い歴史に、新たな一ページを刻もうとしている。
    これは僕にとって大いなる発見であったし、「出会い」がもたらした大きな変化でもありました。
    P.3-4
    と書いている。

    タイトルの「でっけぇ」は、歌舞伎十八番「暫」の中で、主人公の鎌倉権五郎に向かって劇中でかけられる、褒め言葉だ。
    実際、この芝居を見たことのある人なら、その実際以上の舞台上での存在感の”大きさ”を褒め称える言葉であることは、わかるだろう。
    扮装だけではなく、権五郎を演じる役者の、気持ちの大きさが、観客の目に反映される。どんな役でもそういう面はあるが、特にこの役にはそういう”大きさ”が要求されるように思う。
    そして、ここ数年の海老蔵さんの権五郎は、まさに「でっけぇ」にふさわしい。

    市川海老蔵という役者は、世阿弥のいう「時分の花」にぴったりだと、ここ2年ぐらいの彼の舞台を見ていて、感じている。
    四百年、十二代を数える名門・市川團十郎家を継ぐべき星の下に生まれた彼は、子供の頃からずっと、その重責を担うための英才教育を受けてきた。それでも、團十郎という名前の重圧に押しつぶされそうになったことは、一度や二度ではなかったに違いない。
    歌舞伎の家に生まれたということは、まさにそういうことなのだ。

    樹林さんも、そのことについて、第三章「シロウトに歌舞伎は演じられるか?」の中で次のように述べている。

    「團十郎」は世襲で伝えられているわけですが、待っていれば転がり込んでくるものではない。役者としての充実はむろんのこと、それにふさわしい精神性を要求する「名」なのです。
    P.81
    さらに、修行については、こんなことを。

    歌舞伎役者は小さなころから、歌舞伎を演じるためだけに、長い年月をかけて営々と素地をつくります。言葉は悪いけれども、洗脳に近い教育を受けるわけです。そんな驚くべき修行を積んだ人間だけが、歌舞伎役者になる。
    (中略)
    伝統芸能の世襲は、重荷のリレーだ、と僕は思います。
    受け継ぐものは、何百年もかけて培われてきた「芸」であり、「名」です。「財産」や「地位」ではない。たやすく受け止められるものではなく、子どものころからわけもわからず「芸」を叩き込まれ、バトンを受け取る準備を営々と行ってきた人間だけが、「名」を引き継ぐことを許される。
    P.84-85

    そして、素人にできるのは「まねごと」だけであり、
    歌舞伎の本質は、そういった「かたち」の中にはないのです。小さなころから叩き込まれ、磨き上げられた役者の素地と精神性。その中にこそある。
    P.87
    マンガ原作者として、また、小説家としてたくさんの仕事を抱え、締め切りに追われる樹林さんを、それまでほとんど触れてこなかった歌舞伎の原案作りという新しい仕事に誘い込んだのは、初対面の海老蔵さんが、金丸座の楽屋で発した次の言葉だったという。

    彼はあの射るような眼で僕を見つめながら、こんなことを言いました。
    「樹林さん、歌舞伎って、いろんな縛りがあって、できないことだらけだと思ってませんか」
    (中略)
    「そんなことないんです。歌舞伎は、しようと思えばどんなことでも表現できるんです。できないことはなにもないと思って、ストーリーを考えてみてくれませんか」
    (中略)
    「歌舞伎だと思って書く必要はありません。ふだん樹林さんが書かれている、マンガのシナリオだと思って書いてください。残念ながら、今、歌舞伎の現場には、おもしろいストーリをつくれる人がいない。そういう人材は、マンガやアニメ、ゲームなどの、今いちばん勢いのあるエンターテイメントの現場にいるんだと思っています。僕はそういう人と仕事がしてみたいんです」
    P.36-37

    海老蔵さんは、「石川五右衛門」の製作発表の席で「新作の古典をやりたかった」と話した。歌舞伎の文法を使いながら、現代の人に共感してもらえる新しい作品をやりたかった、ということだ。
    舞台を見ていて、竹本(歌舞伎の際に演奏される義太夫節)や、下座音楽(舞台下手の御簾の中などで演奏される三味線・唄・鳴り物による音楽)、附け、といったモノが上手に取り入れられていて、その中にも「へぇ~」と思わされるような演出が施されていて、「あ、これは歌舞伎だ」と素直に思うことができた。

    新作歌舞伎というと、突飛な演出や舞台装置、効果音、洋楽などを取り入れがちだけれど、そういうものは、やはりどこかで浮いて見えてくる。歌舞伎役者の身体技能に馴染まないからであろう。
    そういう点があまり見受けられなかったのは、海老蔵さんとスタッフの間に共通の認識がしっかりと出来上がっていたからだろう。

    あとがきのかわりに、海老蔵さんと樹林さんの対談が収録されている。
    この対談が、かなり砕けた話まで収録されていて、その点もかえって好ましく感じられた。
    そんな中で、特に印象に残っている海老蔵さんの言葉を引用しておくと

    歌舞伎って本来、新作をやるものだったんですよ。江戸時代には毎年毎年、新しい演目が演じられていたんです。でも、今はそうじゃなくなってますよね。古い演目を繰り返し演じるものになってしまっている。もちろん、古いものを大事にすることも大切なんだけど、それだけじゃダメなんじゃないか、と思っていたんですよ。新しいことをやっていかなきゃいけないんじゃないかと。
    P.162

    結局、「石川五右衛門」も、『「でっけぇ歌舞伎」入門』も、樹林伸から市川海老蔵に宛てた、ラブレターなんじゃないかな?

    海老蔵さんについては、こんな本も出ているので、参考まで。


    写真集市川海老蔵 (十一代目襲名記念)











    村松友視『そして、海老蔵』(世界文化社)







      

    2009/08/28

    一幕見席、存続か?!

    歌舞伎座建替え計画について、記者発表が行われたのが、8月26日。
    その際の報道では、一幕見席については、触れられていなかったため、悲観的に考えていた。

    しかし、今朝、Twitterで「存続するようです」という記述を目にしたので、さっそく、そのネタもとのBlog「江戸と韓国と演劇と映画と」の「一幕見は存続するようです」というエントリーを拝見。
    リンクが貼られていた
    歌舞伎座サイトにUPされた計画書(PDFファイル)
    を見てみた。

    4. うち劇場部分の概要
    客席数 現存(第四期)と同程度を想定 【参考:現存は1,859 席 一幕見席除く】
    桟敷席、1 階席、2 階席、3 階席、一幕見席
    舞台寸法 現存(第四期)と同程度を想定 
    【参考:現存は間口27.5×奥行20.6×高さ6.3m】
    まだ、「想定」という段階なので、これで、存続決定!と喜ぶのは早いのだけれど、現段階での計画に入っているということだけは確認できて、松竹さん、歌舞伎座さんが、ファンの声を聞いているようで、ちょっとだけ安心した。

    なお、現在の歌舞伎座については、つい先日、こんな本が出た。


    篠山紀信・坂東玉三郎『完全保存版 ザ歌舞伎座』(講談社)

     

     

     

    また、歌舞伎座の写真集としては、歌舞伎写真の第一人者・吉田千秋さんの本も。

     

     

    吉田千秋写真集 歌舞伎座―歌舞伎四百年記念』(朝日新聞社)



    劇場というのは、建てただけでは実は単なる箱でしかない、というのは近年できた某劇場に初めて行ってみた時に、痛感した。また、かつては魅力に溢れ、輝いていた劇場も、何かのきっかけですっかりそのアウラを失ってしまうこともある、ということもある。

    劇場というのは、そこを愛するスタッフ、役者、観客が集まって初めて、呼吸を始める。多くの人の心が、劇場をワクワクする玉手箱に育てていくものなのだ。今の歌舞伎座には、そうしたたくさんの人の愛がつまっている。だから、たとえ急な階段を上がろうとも、座席が窮屈であろうとも、歌舞伎座で見る歌舞伎が一番好きだ。

    新しい歌舞伎座も、そういう劇場=小屋になっていって欲しいと願っている。

      

    2009/08/27

    晶文社が・・・

    またもや、哀しい情報が・・・。

    犀のマークで、シブい本を出し続けてきた晶文社さんが、どうやら、規模縮小になってしまうらしい。
    で、今まで書籍編集に携わってこられた、編集者の皆さんも散り散りになりつつあるとか・・・。

    岡崎武志さんの「okatakeの日記」2009年8月26日付のエントリーで知った。

    岡崎さんも日記で触れていらっしゃるが、一昨年の春から夏にかけて、晶文社さんが事業を縮小するらしい、という話題で、シブい本好きの人たちが騒然としたことがあった。
    あの時は、そういう事態に至ることなく、昨年には、岡崎さんの本も、無事、晶文社さんから出た。




    岡崎武志『雑談王』(晶文社)

    晶文社さんお得意のバラエティブック。







    坪ちゃんの『雑読系』なんかは、ご本人が「バラエティ・ブック」を作りたかったっていってたしなぁ。
    そして、晶文社といえば、この人!な、植草甚一さん。



    元祖・バラエティーブックの
    『ワンダー植草甚一ランド』


    そして、植草甚一スクラップブックのシリーズ。




    また、忘れられないのが、月の輪書林の高橋とおるさんの著書を世に送り出したこと。



     『古本屋 月の輪書林』


    月の輪書林 それから









    ほかにも、リチャード・ブローディガン『アメリカの鱒釣り』 の元版とか、濱田研吾さんの『徳川夢声と会った』などなど、晶文社ならではのラインナップがたくさんあって、シブい本好きにファンの多い出版社だけに、今回の話は、とても淋しいし、残念だ。


      

    2009/08/26

    歌舞伎座建替え計画と六代勘九郎誕生

    よる7時のNHKニュースで、いよいよ正式な建替え計画が発表された、東京・東銀座の歌舞伎座。
    「歌舞伎美人」サイトにも、さっそく、計画についてのお知らせがUPされていた。

    「歌舞伎座建替え計画に関するお知らせ」

    そのお知らせによれば、
    発表された内容では、歌舞伎の殿堂「歌舞伎座」の継承を主眼に、劇場部分は従来通りに低層で構え、その独立性を重視した日本様式の外観デザインとなる予定 です。特に、劇場内は桟敷席や一幕見席などの歌舞伎座らしい設備はそのままに、エレベーターやエスカレーターの設置、トイレの増設、客席設計の改善などを 盛り込み、お客様にやさしい空間づくりを目指す方針となっています。
     とのこと。このページには、完成予想図はUPされていなかったので、検索をかけてみると、
    MNS産経ニュースに、完成予想図の写真があった。


    昨年末に発表されたデザイン案は、外観が大幅に変更され、ビルの中に劇場が呑み込まれてしまうような形だった。
    また、建築許可を出す東京都の石原慎太郎知事が、現在の歌舞伎座の桃山風の建築様式を
    「銭湯のような外観は嫌いだ、オペラハウスのようなデザインがいい」
    という意味の発言をしたことが伝えられ、歌舞伎ファンをはじめ、多くの人の反発を招いた。

    その時に発表されたデザインよりは、だいぶ、現在の歌舞伎座の外観が生かされているなという印象があり、一安心といったところ。
    しかし、多くの歌舞伎ファンが熱望している「一幕見席」は廃止される方向のようで、その点は、非常に残念だ。

    歌舞伎の興行は、だいたいの場合、昼の部が11時、夜の部が16時30分開演で、休憩をはさんで5時間程度の長い上演時間が特徴。
    チケット代も、1万数千円から安い席でも2千500円ぐらい。初めてでは「つまらなかったらどうしよう? もったいないな」といった気後れを感じるという話をよく耳にする。こうした人たちに、千円前後で気軽に、生の歌舞伎に触れてもらうことができる、貴重な場が幕見席だ。

    また、コアなファンの中には、贔屓の役者目当て、あるいは気に入った演目を何度も見に通うことができると、繰り返し利用している人も少なくない。

    こうした、歌舞伎全体のファン層を広げるという意味では、非常に大事な役割を担ってきた幕見席を廃止することは、今後の歌舞伎の存亡にもかかわるぐらいの暴挙ではないだろうか。
    新装開場から2年ぐらいは、新しいもの見たさのお客が、団体も含め大挙して歌舞伎座に足を運ぶかもしれない。しかし、そうした"新しもの好き"の客は、常に次のターゲットを求めて、動いている人たちだ。その中の何割が、歌舞伎ファンとして定着し、リピーターとなってくれるか、といえば、非常に心もとない気がする。

    一方、こうした団体客に押し出された歌舞伎ファンからは、舞台を生で見る機会が減り、「こんなにチケットとりがたいへんなんだったら、もういい」と背を向けられてしまう可能性だって、大いにある。
    しかし、幕見席があれば、こうした前売りでチケットを購入できなかった人たちをある程度、吸収することができる。
    また、学生や若い人で「お金はそんなに持っていないが歌舞伎は好き」という人たちが、生の歌舞伎を手軽に楽しめる機会を提供することもできる。

    今年の春に発表された計画では、幕見席のかわりに「ガラスで仕切った上階の別室から、舞台と客席をけんがくすることができる」施設を作る、という項目があったが、せっかく歌舞伎座まで足を運んだ人たちを、なぜ、ガラスの向こうからしか見られない場所に押し込めなくてはならないのだろうか?
    たとえ、舞台からは離れた席でも、生の舞台に触れてもらって、歌舞伎の楽しさ、美しさ、醍醐味を知ってもらってこそ、ファンが生まれるというものではないか?

    そういう意義のある場所としての「一幕見席」廃止を、ぜひ見直していただきたい。

    なお、新生・歌舞伎座の完成は2013年春の予定 とのこと。
    それまで、歌舞伎の公演数事態は維持するという発表が同時になされ、新橋演舞場ほかの劇場で歌舞伎を上演するものと思われる。


    また、このニュースの中で、十八代中村勘三郎の長男・勘太郎が、六代勘九郎を襲名することも発表されたとのこと。
    2012年に披露興行を行うとのことなので、新生歌舞伎座の杮落としより早い時期になるが、重ね重ねおめでたい。

    勘太郎くんといえば、小さな時から舞台で活躍しており、近年はその進境著しさに目を見張らせるものがある。

    父・勘三郎さんは「息子だからといって、名前を継がせるとは限らない」と自身の襲名の折に語っていたが、早くも息子の成長を認めたということだろう。
    今秋には、タレントの前田愛との結婚が決まっている勘太郎くん、ますます芸に精進してくれるだろう。

      

    2009/08/25

    iPhoneアプリ「TSUZUMIN」は、なかなかの傑作!

    昨日、twitterのTLで教えてもらった「TSUZUMIN」というiPhoneアプリを、さっそくDLして触ってみた。

    さすが、音楽系に強いiPhoneアプリ!かなりいい線行ってます。



    こんな画面が出てくるので、適当に
    タップしてください。
    すると、画面が変わります。















    これが、Play画面。



    とりあえず、掛け声のボタンをタップしてみると、人間国宝の声じゃない、コレ!?

    「ホヲ」って、「ヲ」の使い方がかなりマニアックだぞw
    でも、惜しいかな、うちのお流儀で附(つけ=楽譜の代わりの覚書)を書く場合、「ハヲ」「ヤヲ」なんだけどね…。

    人間国宝のお流儀はどうだっけな???








    そして、鼓の皮の部分をタップすると、「おお!ポだ!」
    しかも、相当いい音だこれ。
    少なくとも、わたしが打つよりはずっといい音(汗)
    でも、「ポ」しか出ないのは、残念!と思ったら…。

    昨日は、ちょうどお囃子のお稽古日だったので、お稽古場で師匠に「こんなもの、見つけました」と
    見せると…。

    なーんと、「タ」の音も出るじゃない!
    さすが、師匠、直感的に、タップする場所を変えた!!



    えーと。この鼓の部分に、黒い線が2本ある。
    内側の、皮の色が濃い部分をタップすると「ポ」という音が出る
    (これを乙=低い音という)。

    で、外側のお花みたいな模様がついている、
    皮の色が薄い部分をタップすると、「タ」という音が出る
    (これを甲=高い音という)。









    これ、本物の鼓でも、同じ。
    鼓を打つ場合は、説明のページにも書いてある通り、「調緒(しらべお)」という麻の紐を左手で締めたり緩めたりする操作が加わる。

    そして、音色には他に、弱く皮を打つ「プ」(乙の音)と「チ」(甲の音)がある。(「ペ」もあるとのことだけれど、うちの流儀の場合は、特別な曲でしか使わないので、普段はまったくご縁がない)


    掛け声も、演奏する場合には、まだまだ他にもあるけれど、だいたいこの5種類の変形かな?
    あと、曲調によって、語尾の上げ下げ、長く引っ張るか、短く切るか、という違いなど、いろいろあることはある。

    「これ、人間国宝の掛け声だよ。たぶん、ポとタの音もそうだと思うな。サンプリングされてるからね、あの先生の音は」
    と、師匠がおっしゃってた。
    「あと、すごく、レスポンスがいいね、この画面を叩いたときの」
    と驚いていらした。

    「明後日、人間国宝にお目にかかるから、言っとこう!」
    と、おっしゃる師匠の目に「キラーン!」という光が w

    ちなみに、TVCMなんかでよく鼓の音が使われているが、かなりの確率で、人間国宝の先生のサンプリング音源らしい。

    ということで、本格的なサンプリング音源を、iPhoneがかなりいい音質で再現しているアプリだということが、わかった。
    願わくは、「チ」と「プ」の音も出せるようになると、とてもうれしい。
    あと、録音できたりすると、なおうれしい。

    締太鼓と大鼓、能管も出ないかなぁ~? そしたら、四拍子揃うから、面白いのにな
    っていうのは、あまりにマニアックすぎるか…w


    それにしても、こんなちゃんとした音でアプリを作ってくれた製作者さん、ありがとう!

    iTunes StoreでTSUZUMINを見る
      

    2009/08/20

    「船弁慶」を聴きに歌舞伎座へ

    日曜日に見て、また見ちゃった納涼歌舞伎第二部。
    なんといっても「船弁慶」の傳次郎さんの太鼓が聴きたくて、一度聴いてしまったら、また聴きたくなる、という連鎖が…。
    日曜日は、偶然、当日券で非常によいお席が出ていたので、予定外に観劇した。
    で、今日は、お友達と「行くなら、その日しかない」と予定を合わせていた分。

    で。「船弁慶」。
    この曲は、2年ぐらい前の、歌舞伎座で染五郎さんのシテの時に、通ったなぁ。
    実は、この時は、踊りを見に通ったのではなく(笑)、お囃子を聴くために、幕見に通ったのであった。
    その時も、タテ鼓が家元(=田中傳左衛門氏)、太鼓が傳次郎さんで、大いに感動。
    最後、知盛の幕外の引っ込みの時に、太鼓と笛の出打があるのだが、これがまた、非常にカッコイイのだ。
    傳次郎さんが太鼓を出囃子で打つ機会は、最近、かなり減っている。本興行では、ご兄弟が揃わないことが多いためだ。
    鼓に関しては、やはり、家元がスゴイなあと思うのだけれど、太鼓は、やはり傳次郎さんがいい。望月長左久さんもいいけど。

    傳次郎さんの太鼓の好きなところは、同じお道具なのに「こんなにいろんな音色が出せるのか!」というところ。曲想によって、やわらかい音、明るい音から硬い音、鋭い音、重い音、までさまざまな情景を見せてくれるところ。
    「船弁慶」でも、舟長が出てきて、ご祝儀の唄を歌うあたりは、のどかで明るい感じだし、知盛が出てくるところでは、不気味で不吉で暗くて、そんな感じが漂う。
    知盛が義経に襲いかかるところからは、長唄も囃子もどんどん盛り上がっていく。その時のノリを作ってリードしていくのが、太鼓の役目。
    前に、家元が「弟の太鼓は、リードする太鼓だ」とおっしゃってるのを読んだ事があるけれど、まさにそんな感じ。
    その場の雰囲気を作り出していくという意味の「リード」が、傳次郎さんの太鼓なのだ。

    さて、今月はあと何回、傳次郎さんの太鼓が聴けるかな??? せめて、あと一度は聴きたいものだが。
      

    2009/08/19

    ひとり五役の「六歌仙」を堪能!

    納涼歌舞伎も、ひとまず歌舞伎座での興行はこれが最後。
    今年は、野田秀樹や串田和美さんによる新作系はラインナップされず、夏芝居だからということか、二部と三部で怪談モノが。
    演目と配役は「歌舞伎美人」サイトを参照。
    残念ながら、勘三郎さんと三津五郎さまががっぷり組んで、という演目がなくて、さびしい。

    一部は、真山青果「天保遊侠伝」と「六歌仙容彩」という番組。
    実は、真山青果は、「御浜御殿」以外は、今まであまり面白いと思った芝居に出会ったことがなくて、今回もそれほど期待していなかった。
    ただ、ここ数年、一部の幕開けの芝居で、勘太郎くんがいい芝居を見せてくれているので、そこに期待した、という感じ。お目当ては、当然?三津五郎様が踊る「六歌仙」の方だった。

    「天保遊侠伝」。
    勝海舟の父・勝小吉を主人公に、幕末の御家人の任官に関する腐敗と、父子の情を描いたっていう感じの内容。
    まず、橋之助さん家の宗生くんが、勝麟太郎役でかなりがんばっていたのに、びっくり(笑)。所作にぎこちなさはあるけれど、セリフに関しては、いい感じ。麟太郎のセリフがよかったので、かなり感情移入できた。橋之助さんが逆に、吼えすぎてて、ちょっと引いたけど…。
    勘太郎くんの、小吉の甥っていうのが、もう一つ人物像がつかめなかった。雰囲気は出てると思うんだけど。あの家から持ち出した大金はどうなっちゃうんだろう?と芝居が終わってから、ふと、考えてしまった。
    この芝居では、なんといっても、萬次郎さんの阿茶の局が光っていた。
    勝家の跡取り娘だったが、大奥に出仕することになり、跡継ぎとして、小吉が勝家に養子に入った、といういきさつから、小吉の無頼っぷりに心を痛め、聡明な甥・麟太郎の行く末を案じ、江戸城にお伽の若衆として仕えさせる決意を語る。
    説明的にならず、情に流れすぎず、阿茶のセリフを聞いているだけで、ここに至る状況が、くっきりと見えてくる。
    そういえば、「御浜御殿」でも、意地悪なお局様を演じて、短い登場時間ながら、存在感があったよなぁ~というのを、思い出した。
    宗生くんと萬次郎さんのおかげで、楽しめた「天保遊侠伝」であった。

    そして、お待ちかねの「六歌仙」。
    この変化舞踊を通して上演するのは、とても珍しいこと。1時間45分ほどかかるこの通し、一人の役者が5つの役を変わり、その変化の妙を見せるのは、たしかに難しい(六歌仙のうち、小野小町だけは他の女形が演じる)。
    遍照=僧正という位の高い、年老いたお坊さん
    文屋=色好みの町人
    業平=ご存知、美男で歌も上手な公家・在原業平
    喜撰=姿をやつして祇園に遊びにきた、位の高いお坊さん、喜撰法師
    黒主=小町に和歌を盗んだと、いいがかりをつける、天下の転覆を狙う悪人
    この5人の男が、絶世の美女=小野小町(喜撰では祇園の茶屋の女将・お梶に置き換えられているが)に恋をしかけるが、全員、ことごとく振られてしまう、というのが全体の筋。
    とはいえ、筋は二の次、三の次で、それぞれの男を、一人の役者がどのように踊り分けていくか、が見所となる。

    今回、五役を続けて拝見できるという贅沢なひと時を堪能した。遍照は、もうちょっと老成感があった方がいいのかな?とも思うが、文屋・業平・喜撰・黒主の四役は、それぞれの役の違いが踊っていない時でも伝わってきて、さすがだなぁと。
    特に喜撰は、この曲単独で踊られたのも拝見しているけれど、今回は、お梶に勘三郎さんが付き合ったというのもあって、見ごたえがあった。勘三郎さんの喜撰も見ているが、芸質からいって、三津五郎さまの方が喜撰には合っていると感じる。勘三郎さんだと、愛嬌がありすぎるんだよなぁ…。
    所化で並んだ若手が、みんな三津五郎さまの一人踊りのところになると、ジーっと見てるのがわかって、お行儀が云々という硬い話はヌキにして、間近でこの踊りを見られる機会を、しっかり肥やしにするんだよ~と思った。

    地方があれで、もうひとこえ行ってれば、言うことなし!なんだけどなぁ、残念。ちなみに、望月の家元が久々に出囃子に並んでいらして、びっくり。いろいろあるんだろうな…。

    うーん、せめてあと1回、見たいなぁ「六歌仙」。


      

    2009/08/16

    新しい歌舞伎の可能性を感じさせる樹林伸原案「石川五右衛門」 


    まだまだ、工夫の余地はあると感じたけど、海老蔵さん、石川五右衛門というチョイスは正解。
    今月の演舞場は、樹林伸さん原案の「石川五右衛門」。
    樹林伸さんって???と思ったら、「金田一少年の事件簿」や「神の雫」の著者とのこと。
    どちらも、読んだ事はないが、タイトルぐらいは知ってるぞ、わたしだって(笑)。
    海老蔵さんが、樹林さんにオファーした、ということを筋書で読んだ。

    「金田一少年の事件簿黒魔術殺人事件」(少年マガジンコミックス)



      ※樹林さんも出席した製作発表会見の模様は「歌舞伎美人」サイトで読める。
      ちなみに、Amazonに樹林伸さんの近著が掲載されていました。ちょっと楽しみ。
         でっけえ歌舞伎」入門 マンガの目で見た市川海老 蔵」(新書)


    石川五右衛門は、五代目と七代目團十郎が演じて好評を博した演目ということで、市川家にはゆかりの深い演目とのこと。
      ※「歌舞伎美人」サイトの「みどころ」参照


    五右衛門といえば、「楼門五三桐」の「絶景かな、絶景かな」というセリフでおなじみの芝居が思い浮かぶ。南禅寺の山門の上で、煙管を手に、厚手のビロードの着付けに百日鬘で腰掛けている五右衛門が大セリで道具のセリ上がりとともに現れるところは、絢爛豪華な装置も見物の場面。


    今回の新作は、こうした古典の筋を踏襲しつつ、新たな場面も加え、かつ、歌舞伎らしい下座音楽や演出が用いられているという意味で、「新しい古典」になり得る要素は十分に備えている。
    ただし、このままでいいかというと、まだまだ、刈り込み・書き足し・工夫は必要だと思うが。

    発端。五右衛門の釜茹でのシーンを義太夫にのせた人形振りで演じられる。木村常陸介は、ちょうど「阿古屋の琴責め」で出てくる岩永左衛門を思わせる赤面で、眉毛が人形のように動くところなど、ユーモアがあって、短いながらも客を歌舞伎の世界に引き込むには、よい仕掛けだと思う。

    序幕。釜茹での場面から一転、伊賀山中に場所が移る。祠の前に倒れていた五右衛門を見つけた百地三太夫が、一番弟子・霧隠才蔵に命じて、伊賀忍の術を教える。その様子を、立ち回りを交えて見せていく。演出の工夫が、もうちょっと欲しいところ。ただし、ここの場の附けがうるさい! 囃子がまったく聴こえないほど大きな音で打つのは、かえって邪魔になる。ここは附け打ちさんと役者・囃子方で話し合って調整していただきたいところ。

    二幕目。場面はまた変わって、聚楽第の奥庭。秀吉の愛妾・茶々と五右衛門の出会いと二人の初恋の模様を、長唄+筝曲の地に乗せた所作事で見せる。茶々は七之助くん。ここの長唄がねぇ…だからなのか、そもそもなのか、ちょっと判断は保留するが、この場は長い気がした。まぁ、演出が藤間宗家だから、所作事が長くなるのも、わからないでもないのだけれど。
    もうちょっとコンパクトにまとめると、良いと思う。

    三幕目聚楽第お茶々の寝所の場。逢瀬を重ねた五右衛門と茶々だけれど、いつまでも続く訳もなく、五右衛門が茶々に別れを告げる。気分がすぐれないと、自室に引きこもっている茶々を、前田利家が訪ねてくる。この時、利家が全身真っ赤な裃姿なのかが、謎だ…。
    茶々の身を案ずる利家に、妊娠したことを打ち明ける茶々。そこへ、團十郎・秀吉がいよいよ登場。茶々の懐妊を知り、喜ぶ秀吉だが…。
    この場は、そもそも利家がなぜたずねてきたのかが、イマイチ説明不足だなぁ。五右衛門との密会に気づいてやってきたのか、本当に彼女の身を案じてきたのか、利家が退場してもその辺のあいまいさが、引っかかる。

    南禅寺山門内陣の場で、五右衛門に呼び出された秀吉が、秘密を打ち明ける。ここは、照明が暗くて、たいした道具も飾られていないし、、二人だけのやり取りで進行していくしで、もうちょっとテンポをよくしないと、肝心な場面なのに、飽きる…。

    そして南禅寺山門の場。ここが、「楼門五三桐」の「山門」にあたる場面かと思ったら、まだクライマックスはこの後にとってあるので、さほど派手さはなし。

    大詰。大阪城天守閣大屋根の場。大薩摩でつなぐのは、お約束。こういうところをきっちり作るのは、さすが宗家。だけど、大薩摩がねぇ…。
    ここで、五右衛門は、伊賀忍びの術を繰り出して、派手な立ち回りを見せる。分身の術の見せ方なんかは、ある意味原始的なのだけれど「おお、この手があったか!」という演出の工夫があって、楽しい。

    三条河原釜煎りの場。大きな釜がしつらえられた舞台面は、発端と同じ。ただし、その釜を取り囲む人数は、増えている。そして、いよいよ五右衛門が釜の中に飛び込むと、中から葛篭が浮かび上がり、舞台の上をふわふわと飛ぶ。そして、その葛篭が消えると、花道スッポンから一回り大きな葛篭が吊り上げられ、葛篭が割れると中から海老蔵・五右衛門の登場。釜の中に葛篭が仕込まれていたのは、あの人の情け、というセリフで「なるほど、五右衛門の葛篭抜けってのは、そういうことだったのか!」と納得。
    海老蔵さんが葛篭を背負って、空中六法をすると、柄の大きさと手足の先まで、神経の行き届いた動きで、力強さの中に美しさがあって、まさに「花形役者」だなぁと。この釜煎りの場を見るだけでも、かなり満足感はあった。

    個々の場面について、注文はいろいろあるのだけれど、見落としている部分もあるかと思うので、全体を通して感じたことを。
    まず、義太夫狂言でありながら、義太夫が面白くない。言葉が伝わってこないのは、問題。再演があるならば、人選含めて、工夫をしていただきたいところ。
    人がいない、とはいえ、もうちょっと人間模様を厚めに描いて欲しい。せっかく市蔵さん、猿弥さん、右近さんがいながら、しどころがあれしかないのは、もったいない。これも、再演の折には、もうちょっと工夫をしていただきたい。

    とはいえ、新しい原案を歌舞伎古来の手法で、それぞれのいいところを活かしたという意味では、新作歌舞伎の一つの方向を提示した作品だと思う。
    これを、1回限りの上演で終わらせるのではなく、さらに手を加えて、「平成の歌舞伎」として、後世に伝わる作品に育てていって欲しいと願う。

      

    2009/08/14

    白いハンカチにこめられた思い

    東京メトロ九段下駅の改札を出たところに、「記された想い 手紙と日記に見る戦中・戦後」のポスターが貼られていて、所要を済ませたあとで、行ってみた。

    戦時中、戦地にいる兵士とその家族が近況を伝えあえる唯一の手段は、手紙のやりとりでした。当時は検閲制度があったため、本心を書くことは難しい状況でし たが、手紙を丹念に見ていくと、家族を思う気持ちだけでなく、手紙には書けない当時の情勢なども読み取ることができます。
    また、日記には戦争の影響で変化していった日々の生活や、終戦後社会が復興してく様子が、そのときの想いとともに記されています。
    昭和館がこれまで収集してきた多くの手紙や日記等の資料とあわせ、写真や当時を思い出して書かれた絵手紙を展示し、戦中・戦後の生活の様子、人々の想いを紹介いたします。

    という趣旨の企画展示。
    全体は、1.銃後のくらし 2.戦地と銃後をつないだ手紙 3.終戦、戦後 4.戦中・戦後の夏休みの日記 という4つのコーナーに分けて構成されていた。
    その日の勤労奉仕の内容を記した日記、配給の食糧を水彩画で描いた日記など、日々のくらしにおわれていたであろう中でも、こうやって丹念に記録を残した人がいたんだなぁ。
    また、手紙でも、絵が添えられたものもあった。

    中でも印象的だったのは、恋人に宛てて、その無事帰還を待つと書かれた、白いハンカチ。そこには

    我君とともに
    健壽様
    淑江

    と書かれていた。
    その文字は、彼女の血で書いたもので、すっかり血の赤は褪色して茶色になっている。
    婚約した後、健壽さんに召集令状が来て、健壽さんは婚約破棄を申し入れたが、淑江さんは「二年でも三年でも貴方の御凱旋をお待ちしております」と書いた手紙とともに、このハンカチを添えて翻意を促したそうだ。
    二人は後に結婚、他界されるまで、誰にも見せることなく大事に保管していたものだという。

    この白いハンカチに限らず、人前で「生きて帰ってきて」とは言いにくかったであろう当時、精一杯の思いを込めて書かれた手紙の数々を読むと、二度とこういう時代になってはいけないと思った。

    昭和館会館10周年記念「記された想い ~手紙と日記にみる戦中・戦後~」は、8月30日まで、東京・九段下の昭和館で開催。入場無料。
    詳細は昭和館のサイトを参照してください。

    それにしても、ポスターのビジュアルがなかなかよかったのに、サイトにはそれが使われていないのは、もったいないなぁ…。
      

    2009/08/05

    寺子屋が江戸の文芸を開花させた


    文楽や歌舞伎の人気演目に「寺子屋」の段がある。
    現在でも、たびたび上演される人気演目で、その影響からか、江戸時代に子供たちが通った塾は「寺子屋」と思い込んでいたが、杉浦日向子さんの『うつくしく、やさしく、おろかなり』(筑摩書房)を読んでいたら、こんな一節に出会った。
    おもに西日本では、「寺子屋」と呼び、江戸では、もっぱら「手習指南所」、「手跡指南所」と呼んだ。
    (「江戸の育児と教育」P.71)


    あれ、寺子屋っていうのは、西日本での呼び名だったんだ!
    文楽や歌舞伎で上演される「菅原伝授手習鑑」五段目「寺子屋」の段は、義太夫節の演目なので、「寺子屋」だったということで、納得。

    「菅原伝授手習鑑」寺子屋(1955) CD









    歌舞伎名作撰 「菅原伝授手習鑑」 寺子屋 (DVD)



    この「寺子屋」の段をごらんになったことがある方は、よくご存知だろうが、歌舞伎の場合、寺子を演じるのは子役(最近は、児童劇団所属の子供がほとんど)だが、一人だけ大人の役者が「よだれくり」と呼ばれる道化を演じる。この「よだれくり」は、師匠が留守なのをいいことに、必ず途中で手習いをさぼって、「へのへのもへじ」を描く。

    ところが、現・市川左團次さんが子役時代(当時は、市川男寅)に、菅相丞(=菅原道真)の一子・菅相才を演じたときに、「へのへのもへじ」を描いていたのを、誰かが舞台写真を見ていて見つけたのだというエピソードを、『劇場歳時記』という著書の中で紹介している。
    役の性根からいうと、これはいけないことなのだが、戸板先生はなぜか、微笑ましく感じ「大人になったら、いい役者になるにちがいない」と、確信されたという。
    そして、そんな戸板先生が見抜いたとおり、いまや、歌舞伎には欠かせない役者さんになり、テレビや映画でも怪優ぶりを発揮していらっしゃる(笑)。



    左團次さんの怪優っぷりを知りたい方はこのエッセイをどうぞ。

    俺が噂の左團次だ』(ホーム社)






    そんな寺子屋(江戸では、手習指南所、手跡指南所)が、江戸時代中期には各地で普及し、子供の就学率は、なんと80%近かったという専門家もいる。その数、全国で1万5千ほど。これは、驚くべき数字だ。

    専門家の推定では、幕末の嘉永年間(1850年頃)での江戸で
    の就学率は、70~86%。これを以下のデータと比較してみよう。

    ・イギリス(1837年での大工業都市) 20~25%
    ・フランス(1793年、フランス革命で初等教育を義務化・
    無料化したが) 1.4%
    ・ソ連(1920年、モスクワ)20%

     江戸日本の教育水準がいかに群を抜いていたかが分かる。なぜこ
    れだけの差がついたのか、単に物質的豊かさだけなら、産業革命に
    成功し、7つの海にまたがる広大な植民地を収奪したイギリスの方
    が、はるかに有利だったはずである。
    花のお江戸はボランティアで持つ より


    なぜ、江戸時代には、こんなに高い就学率が実現できたのか?
    その理由は、大きく分けると、2つあると思う。

    第一に、私学であるにもかかわらず、決まった「月謝」がなかったから。
    もちろん、お金に余裕のある親は、現金を謝礼として師匠にわたした。しかし、町人の大多数を占める長屋住まいの多くは、金銭的な余裕がない。そこで、自分の商売物(食べ物や日用品)、あるいは労働奉仕という形で、師匠に謝礼をした。
    だから、多くの子供たちは、働きに出る十歳前後までの期間、教育を受けることができた。

    第二に、江戸の長屋で暮らす町人は、共働きの率が高かったこと。
    父親だけでなく、母親も働きに出たり、家で内職をしたりすることが当たり前だったから、小さな子供が家でウロウロしていると、仕事の邪魔になる。だから、子供たちを手習所に生かせて、その間に、仕事に専念していたのではないだろうか。

    現在とちがって、ご近所付き合いが濃密だったから、両親が仕事から戻ってくる前に、子供たちが手習い所から帰ってきても、向こう三軒両隣のおじちゃん・おばちゃん、おじいちゃん・おばあちゃんたちが、子供の様子を見守ってくれる。
    そうした、安心感があったから、両親も心置きなく働くことができたと考えられる。


    それでは、子供たちは、どんなことを勉強していたのか?
    これは、最初に触れた「寺子屋」の段で描かれている通り、数字と平仮名の読書きが主なものだった。日常で使うのは草書体だったので、町人の子供たちは草書を習った(現代とは逆だなぁ、ココ)。
    だから、現在まで伝わっている、黄表紙・洒落本の類の書体が、草書なんだな。版木を彫るなら、楷書体の方が彫りやすそうだけどな、と思っていたのだけれど、「みんなが読める」ということの方が重要だからか。
    ちなみに、武家の子は、公文書が楷書体を使うため、楷書までは嗜みとして必要だった。
    また、地域によって簡単な算術を教えたり、地理・人名・手紙の書き方・職人が使う用語といった、実用的な教育を行ったところも少なくなかった。

    町人でも、武士でも、もっと勉強したい(親がさせたい、というのも当然あっただろうが)という子供がいれば、師匠が個人教授を行ったり、さらには学問所を紹介したり、ということで勉強を進めることもできた。

    それでは、教える側はどんな人だったのか?
    僧侶・神官・武士・浪人・書家などが多かったという。また、足利学校のような、師匠を養成する学校まであった。
    ほとんど現金収入にならないのに、なぜ、1万5千もの手習い所があったか? 
    その答えを

    それでは、なぜ全国で1万5千もの塾ができる程、大勢のボラン
    ティアの先生がいたのだろうか。それは、先生になると、たとえ身
    分は町人でも、人別帳(戸籍)には、「手跡指南」など、知的職業
    人として登録され、生徒には「お師匠様」と尊称で呼ばれ、地域で
    も知識人、有徳者として尊敬された。優秀なお師匠様は将軍に直接
    拝謁して、お褒めの言葉をもらうこともあったという。

     お師匠様たちは物質的には豊かでなくとも、近隣の人々に感謝さ
    れ、尊敬されるという精神的な価値で十分満足できたのである。
    「花のお江戸はボランティアで持つ」 より


    江戸文芸の発達と繁栄の礎は、寺子屋の普及によって初等教育が行き渡ったことが、築き、支えていたんだなぁ。

      

    2009/08/03

    あれやこれや

    あれやこれやと拡散した興味をひっくるめた全部がわたし。
    まだまだ、試行錯誤中。

    今まで、世の中のことに、あまり関心を向けずに来たけれど、知っているほうがいいことは、世の中にはまだまだたくさんある、ということに気づいてしまいました。
    だから、国内の政治や地方自治も、イランやウイグルの民主化運動も、環境についても、国内各地に残る古きよきニッポンも、自分の好奇心に素直にしたがってみることにしました。

    ここは、そんなあれやこれやのカオスの場所。
    だから、貼り交ぜ帖と名づけてみました。

    どうぞ、よろしく!